◎連載
第8回 これ以上、音楽を作る必要があるのか?

反ヒューマニズム音楽論 (若尾裕)

 私は芸術大学の作曲科というところに行ったので、卒業するまで毎年課題作品を提出しなければならなかった。作曲にはげんでいるかどうかが、担当の先生とのあいさつがわりの会話だったし、友人とのあいだでも作曲が進んでいるかどうかがよく話題となった。
 にもかかわらず私は、世の中にこんなにたくさんの曲があるのに、私のようなものが新しい曲を書く意味はなんだろう、というじつに素朴な、しかしそれゆえにかえってタブーに近いような自問自答を、心のなかから追いはらうことができなかった。そもそも作曲科に行ったのは、作曲がやりたかったからだろう?──といわれればまあそのとおりだし、いままでにない独創的で新しい音楽を作ることができるとしたら、そこには意味があるだろうということも、もちろん理解してはいたのだが。
 別の話──。あるとき友人の美術家が教えている美術大学を訪ねたときのこと。裏の倉庫のようなところに、おびただしい数の絵が放置してあるのを目にした。学生が提出した作品や、制作したきり持ち帰らなかった作品だという。そのスペースはすでに限界に達しつつあるようだった。しかし、絵は毎年一定量増えてゆく。収まらなくなったらどうするのかとたずねると、適当に焼却処分するのだという。保管の限度を超えた絵は棄てられるわけである。美術品というものは究極的にはゴミなのだと思った。
 世界に画家といわれる人が何人いるのかわからないが、彼らが年間に生産する絵画の量はどれくらいなのだろう? このままわれわれの世界がずっと続くとするなら、そのうちそれは地球上を覆いつくすほどに増えてしまうのではないだろうか? 身動きがとれなくなるほどに絵でいっぱいになってしまった世界──。それは漫画的な妄想でしかないが、一面の真理もある。つまり、地球上には絵というものが不可逆的に増えつづけていくということである。
 音楽は絵のように場所をとらないので、このような状況はさほど想像しにくいが、ある時代からこっち、地球上の音楽は増えつづけ、どんどん蓄積されてきていることはたしかだ。楽譜であれ、CDのような音源であれ、ディジタル化されることによって、劣化・散逸の危険は飛躍的に減少した。音楽の保存状況にかんしていえば、たった100年前といえども石器時代に等しい。
 バッハの時代には、作品をすえながく残そうという意欲はあまり強くなかったようだ。新作された作品の楽譜でさえ、いちど演奏がすんだら、さほど注意深くはあつかわれなかった。そのようにして、バッハの作品は完全に忘れ去られていった。
 だが、ご存知のように100年ほどへたのち、彼の作品はふたたび注目の対象となりはじめる。いつの時代にもオタクな人々がいるようで、忘れ去られていたバッハの作品の楽譜を収集していたほんのひとにぎりの好事家の私的なコレクションから、まずは復興がはじまった。その後各地でバッハ作品の発掘がはじまる。音楽学という学問は、そういった収集、鑑定、整理のための方法論が必要となったことによって生まれた。こうした書誌学的な研究は、いまでも音楽学のなかの重要な部門といってよいだろう。
 このように多くの努力がはらわれてきたにもかかわらず、いまだにすべてのバッハ作品が、発見され整理されアーカイヴ化されているわけではない。最近でもヨーロッパのどこかで、知られざるバッハ作品が新発見? といったニュースが耳目を集めることがある。古い教会や貴族の館の物入れから埃にまみれた大作曲家の手稿を発見するのは、いまなお音楽史学者のみるインディー・ジョーンズ的夢のようである。
 こういった過去の作品の発掘と保存は、どうやらバッハ作品復活のころからはじまったようである。それはいうまでもなく、啓蒙思想や歴史意識の発生、さらにはヘーゲル的な──世の中が右肩上がりに進歩するという──世界観と深くかかわる現象である。またここには、西洋芸術音楽をその他の世界の音楽から切り離して特別あつかいするために、合理的な歴史的説明が必要とされたという事情もおおいにかかわっている。金字塔のごとくそびえる西洋芸術音楽が、みずからの成立についての説明を必要とするのは、京都あたりの老舗が室町時代あたりからの店の縁起をまことしやかに吹聴するのとさほど変わらない。
 もうひとつ、作曲というものをささえているのは、芸術家の創作というものにたいする無条件の肯定である。弟子にたいして作曲に専心しているかどうかを問う先生の意識には、芸術家が作品を作りだすことは、(たとえ生まれたものが駄作であろうと)貴重な営為である、という強い信念のようなものがある。この信念と右肩上がりの歴史観は、じつは同じ意識に根をもつものであり、「アジアの街の作曲科」という奇妙な状況にも深く浸透しているのである。
 いまでは少々状況が異なるかもしれないが、私の時代、作曲科の学生が書くべき音楽は、「現代音楽」という社会的にさほど認められていない領域にかぎられていた。ほとんど需要もなく、見返りも悲惨なほどに期待できないジャンルである。にもかかわらず、彼が創作を続ける意義は二つある。ひとつはこの西洋的モダニズムにおける創造というイデオロギーへの信仰にたいして帰依を示すこと。もうひとつは、そんな狭い市場のなかでのわずかなチャンスをものにするため、という現実的な理由である(作りつづけなければわずかなチャンスもめぐってはこない)。
 われわれ作曲の学徒が、人々から見向きもされない新しい音楽を作りだすそのいっぽうで、市場ではバロック音楽や、マーラーやブルックナーの交響曲といった、これまた見向きもされていなかった多くのレパートリーが再開発され、芸術音楽のアーカイヴに組みこまれ、ふくらんでゆく。しかし、データベースがいくら巨大になっても、とりだされ消費される量がそれほど増えるわけではない。消費されるデータ量がかぎられるのは、人々の感性が時代や社会の世界観に制限されるからである。とうぜんながら、時代の流行からもれたものは見捨てられたままに終わる。かりに音楽作品の博物館が作られ、優秀な館員の努力により、完璧なコレクションができあがったとしても、その大部分はとりだされることなく終わるだろう。時代がめぐり、ほんらいの文脈からそうとうに隔たった理解のされかたによって、ふたたびとりだされることになる可能性は──バッハのときのように──もしかしたらあるかもしれないにせよ。
 ここまで書きすすめてきたような西洋モダニズムにたいする醒めた視点は、いまでは多くの場面で散見されるようになった。音楽は進歩しなくてはならず、つねに新製品が開発されなくてはならないという、西洋芸術音楽にたいする18世紀以後のやや強迫的な意識は、どうも終わりはじめているようである。若者たちがポップスの新作にたいしてもつ期待感もだいぶ弱まってきているし、音楽産業は新しい企画よりも、いままでのレパートリーを再利用する消極的なビジネスに終始している。
 人によってはこれを音楽の衰退と考えるかもしれないが、西洋近代の音楽(や芸術)の大きな物語が凋落したことの現れと考えるほうが順当だろう。いま問われるべきなのは、たんなる技法上の可能性のなかでのラディカルさではなく、上記のような物語に頼れなくなった状況において、新しい音楽の姿を考えることである。
 作曲家の近藤譲は、音楽は多面的なものであり、いまだに多くの謎を秘めたものであるがゆえに、その謎への問いを立てるところにこそ作曲という行為の意義があると述べているが、これは西洋近代のイデオロギーのなかのある部分を逆手にとって、もう無用となりつつある作曲にあえて意義をみつけようとする試みに思える。前衛的な芸術は社会から孤立し、その自律性を貫徹することによって、社会にたいする鋭い刃となるという、晩年のアドルノの考えかたとも似ている。大きな物語に依存しない問題提起のありかたとしては、このような姿勢もありうるかもしれない。
 近藤のこのようないいかたは、美学者、A. C. ダントーのいう、それまでは表現の可能性の追求であった美術が、1960年代以後はみずからの存在意義を探すための哲学と化してしまったとする芸術終焉論とおおいに重なる。そう、いまの芸術は芸術自身の“自分探し”になってしまったのである。
 近藤自身はみずからの作品において、音と音の関係性を、それまで存在してきた音楽のエモーションやクリシェから解き放ち、異なるコンテクストでの音どうしが結びつく可能性を探究している。様式という大きな物語に依存することを拒否したその姿勢には、他にはない独自性がある。しかしながら、近藤の主張するように、作曲という行為によって音楽とはなにかを問うことは、ほんとうに可能なのだろうか?
 それが可能であるためには、作曲という行為が、みずからが属する音楽文化からのがれ、外部に立脚することが可能であることが前提であるように、私には思える。なぜなら作曲という行為がその属する文化のルールに埋没しているかぎり、その文化にたいして有効な問いを立てることは困難としか思えないからである。目は自分の目を見ることはできない。
 西洋音楽のその芸術性を成立させてきたのは、ローレンス・クレイマーのいうとおり、美学や評論などその音楽をめぐるディスクールという装置にほかならない。音楽の音響だけではその価値をささえることはできない。西洋音楽は評論されたり論究されたりすることによって、その芸術的価値を維持してきたのである。つまり、近藤のように問いを立てることは、ある意味では昔からおこなわれてきたことともいえる。むしろ一面では伝統的な思想に回収することもできるのである。
 作曲と哲学を同一視しようとする議論は、ヴァッケンローダーやシュレーゲルなどドイツロマン派の時代から多くみられるディスクールである。たとえば、E. T. A. ホフマンはベートーヴェンの第5交響曲論のなかで、音楽が未知の世界を示してくれる可能性について熱っぽく語っている。近藤の主張は、どこかこういったロマン派時代の議論と似かよったものを感じさせる。
 そもそも、作曲とはいくつかの異なる意味が歴史的に重層して、成立してきたものであるはずだ。バッハやハイドンがおこなった作曲とは、場や必要性におうじて音楽を現実化する「アレンジメント」という意味合いが強かった。啓蒙主義時代以後になると、その上に、それまではさほど重要なこととはされていなかった「個性」や「独自性」や「創造性」といった地層が積み重なることになる。しかし、すでに作曲という営為が始められた当初から、自然状態においてなりたつ音楽のありかたを超えて、人為的に音を構築するという、一種不自然な操作が当然視されていたことをみすごしてはならないだろう。いってみれば作曲とは、この人為的かつ不自然な操作のことなのであり、この方法があるときになりたち、その結果として生まれた音響が、人々に受け入れられるようになったために、その後作曲行為は加速化し、多くの曲が作られることになったのである。
 ここで大きな役割をはたしたのは、記譜法というものである。記譜法が作曲をうながしたといってもいい。逆にいえば、そもそも作曲は、記譜法が可能にした音楽の構想と具現化の可能性の範囲を超えることはできないのである。ヴィトゲンシュタインの「言いあらわせないことには口をつぐむしかない」という言葉になぞらえていうなら、記譜できない音楽は作曲できないし、書きあらわせない歌はうたえない。近藤のいう作曲という行為も、もちろんこの限定からのがれることはできまい。「問いを立てる」という哲学に似た作曲行為も、こういった西洋音楽のアート・ワールドのルールにしばられることになり、この限定を超えた謎はあらかじめ排除されていることになる。それゆえ近藤の試みはやはり、新しいテイストをもった音楽を開発するための方法論のひとつ、というあたりにとどまらざるをえないだろう。
 さらにこの議論をつきつめていくと、デリダのいわゆる「差延」という概念をもちだしたくなる。いくら問いを立てたとしても、それは芸術音楽というエクリチュールを反復することにならざるをえないだろう。近藤の音楽には、音の迷宮をさまようような独特のおもしろさがあるのだが、どこか閉じた空間のなかでのゲームのような感じがするのは、それがどこにもたどりつきそうもないデリダ的迷宮を音にリアライズしているからかもしれない(そしてそれはじゅうぶんにおもしろいものなのだが)。
 おそらく作曲という行為は、今後もまだ続いていくだろう。だが、少なくとも新製品の供給という機能はほぼ停止し、東浩紀のいうデータベース消費のひとつに吸いこまれていくだろう。最近のJポップのような音楽様式は、とうの昔から、実体から離れた差延的コピーの繰り返しになっているといえるかもしれない。作曲というものは、近藤の示唆する哲学的な問いというありかたも含めて、ダントーのいうように、王子と王女の波瀾万丈な冒険のはてにくる「それから二人はずっと幸せに暮らしましたとさ」以後の、退屈なホームドラマとしてしかなりたたないのかもしれない。

[参考文献]
テオドール・W. アドルノ(大久保健治訳)『美の理論』河出書房新社、1985
東浩紀『動物化するポストモダン』講談社、2001
近藤譲『〈音楽〉という謎』春秋社、2004
E. T. A. ホフマン(鈴木潔訳)「ベートーヴェン・第五交響曲」、前川道介編『ドイツ・ロマン派全集第9巻 無限への憧憬』所収、国書刊行会、1984
A. C. Danto, The Philosophical Disenfranchisement of Art, Columbia University Press, 1986.
Lawrence Kramer, Subjectivity Ramapant! Music, Hermeneutics, and History. in The Cultural Study of Music, edited by Martin Clayton et al., Routledge, 2004.

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