◎連載
反ヒューマニズム音楽論 (若尾裕)
第8回 これ以上、音楽を作る必要があるのか?

 私は芸術大学の作曲科というところに行ったので、卒業するまで毎年課題作品を提出しなければならなかった。作曲にはげんでいるかどうかが、担当の先生とのあいさつがわりの会話だったし、友人とのあいだでも作曲が進んでいるかどうかがよく話題となった。  にもかかわらず私は、世の中にこんなにたくさんの曲があるのに、私のようなものが新しい曲を書く意味はなんだろう、というじつに素朴な、しかしそれゆえにかえってタブーに近いような自問自答を、心のなかから追いはらうことができなかった。そもそも作曲科に行ったのは、作曲がやりたかったからだろう?──といわれればまあそのとおりだし、いままでにない独創的で新しい音楽を作ることができるとしたら、そこには意味があるだろうということも、もちろん理解してはいたのだが。  別の話──。あるとき友人の美術家が教えている美術大学を訪ねたときのこと。裏の倉庫のようなところに、おびただし ……>> read more

反ヒューマニズム音楽論 (若尾裕)
第7回 パイプダウン

 イギリスにパイプダウンという団体がある。この団体はパイプト・ミュージック(piped music。公共空間での録音音楽の再生のこと。いわゆるバックグラウンド・ミュージック)の規制をめざす市民団体である(興味のある人はhttp://www.pipedown.info/を参照されたい)。賛同者のなかで私の知る名前には、ピアニストのアルフレート・ブレンデルや指揮者のサイモン・ラトル、チェリストのジュリアン・ロイド・ウェッバーなどの名前がある。彼らは、現代社会においてもっとも不愉快な音を発するのは、削岩機でも車でも航空機でもなく、いまや音楽であることをさまざまな調査のデータをあげながら主張し、2000年にはこの団体の代表者のひとりである保守党議員、ロバート・キーが法案の提出を試みている。この法案は人びとが自分で選んで出かけるレストランやスポーツ・クラブなどでのBGMまで規制しようというわけではな ……>> read more

反ヒューマニズム音楽論 (若尾裕)
第6回 感情労働としての音楽

 こんにち、世界に作曲家とよばれる人が何人いるかはわからないが、そのなかで、自分が作りたい音楽だけを作っている人はごく一部だろう。ほとんどの作曲家はなんらかのかたちで注文を受けて音楽を作っている。注文のある仕事をひきうけないとしたら、教職など他の仕事をするか、ジョン・ケージのように清貧に暮らすしかない。  この、注文による作曲も、ときたまのことなら、他の仕事のあいまの息抜きていどにとどまるかもしれないが、放送業界においてのように、大量の音楽を一時期に作りあげることになると、これはかなりたいへんなことだ。このような場では多くの場合、調性と三和音を使ったもの──つまり普通の音楽──が要求されるので、同じような音符を同じように並べなければならない仕事がえんえんと続く。必死に音符やメロディを絞り出す努力のすえ、最後にはもう1音符たりとも頭から出てこなくなったりする。  しかしながら、外部のいかなる ……>> read more

音楽・知のメモリア (小鍛冶邦隆)
第12回 日本戦後音楽史──汎アジア主義というエキゾティズム

 伊福部昭(1914~2006)の《日本狂詩曲》が作曲されたのは1935年であり、同年パリのチェレプニン賞を受賞、翌年にボストン初演された。フランス・ロシア近代音楽を中心としたスコアのみを情報源とし、そこからオーケストラの機能と響きを想像して作曲されたこの作品は、戦前の日本における管弦楽作品を代表する音楽のひとつであり、また戦後1953年に刊行された『管絃楽法』(註1)とともに、日本人作曲家が近代管弦楽というテクノロジーをいかに理解し、マニュアル化したかを示している。 ◎オーケストレーションという作曲の技法  《日本狂詩曲》を聴いてみよう。そこでは主題や調的関係による形式といった、統辞的意味としての音楽構造がほぼ不在であり、一定パターンのフレーズの反復が、オーケストレーションのテクステュアの変化と対照性のみで、音楽的実質を生みだしているといってよい。欧米人には、素材の民族的特性よりも、音楽 ……>> read more

音楽・知のメモリア (小鍛冶邦隆)
第11回 日本戦後現代音楽史──前衛とアカデミズムの逸話(2)

 前回の連載では、ヨーロッパの歴史的音楽とはあきらかに異なる、日本の文化制度における統治としての音楽文化の特異性(あるいは不在)についてふれた。とうぜんながら移入文化である「西洋音楽」は、戦時においても、政治的プロパガンダ以上の意味性は獲得されることなく、またそれゆえ実質的な統制の対象ともなるべくもなかったように思える。  日本の戦後の現代音楽は、その出自を自由に選択できると同時に、同時代のヨーロッパ市民社会の歴史性を映す鏡像としての「前衛」を、あきらかに異なるコンテクストで引用することにより、その「現代性」を容易に獲得したといえよう。あとは発育不全のアカデミズムという、実質性のない領域のイメージを対比的に操作すればことたりた。  しかしながら歴史的体験としての「戦時」が現実であるかぎり、やがて作曲家の想像力の極性に作用する瞬間もとうぜん訪れるであろう。 ◎レクイエム・レクイエム  武満徹 ……>> read more