Artes * Web連載
Artes * Web連載 「反ヒューマニズム音楽論」 若尾裕
第1回 深く音楽をする(1)

 「深く音楽をする」ということを考えてみたい。

 哲学を例にとって考えてみよう。哲学とはある意味、考えるという行為をどこまで精密にするかといういとなみだともいえるだろう。われわれはみな考えるが、そのたいていの部分において、決められた手順のなかでその行為をおこなっている。そして、考えるという行為の大部分を、この手順に含まれるシステムが司っている。しかし、思考を精密にする──哲学する──なら、そのシステムそのものを検討せざるをえなくなる。
 音楽するという行為も同じであるように思える。われわれはみな音楽をする。それがJポップであろうと現代音楽であろうと、どんな音楽であろうとその音楽を共有するために前提とされているルールがある。そして、ほとんどの音楽という行為は、この前提に含まれるシステムによって司られている。もしわれわれが、こうしたなかば自動化されたシステムによらないで音楽をしたいなら、その音楽をなりたたせているシステムそのものを検討せざるをえなくなる。
 音楽についての思考を精密におこなう試みが重要であることはまちがいではないのだが、もうひとつ、自動化された音楽生産の回路からのがれ、音楽行為そのものを精密にする試みもまた、じゅうぶんに意味深いだろう。「深く音楽をする」というタイトルにはそんな意味をこめている。

 前述の「音楽を共有するためのルール」とは、そもそもはそれぞれの音楽文化におうじて異なるローカルなルールである。もちろんそのようなローカルなルールは、人びとの移動や交流によって伝えられ、混淆しあい、また新たなローカルなルールへと発展してゆくことだろう。このルールのあり方が大きく変わるのは、音楽学という学問が出現し、なんとはなしにヨーロッパの視点を中心としたグローバル化へと向かいはじめてからである。このグローバル化は西洋近世の音楽の成立とともに、姿を変えながら発展してきたものだ。
 最初はヨーロッパの中心における音楽とその周縁の音楽を差異化することから始まり、芸術音楽と大衆音楽、ヨーロッパ音楽と非ヨーロッパ音楽、絶対音楽と世俗的音楽など、つぎつぎと差異化を進め、ついにはすべての音楽を欧米的・資本主義的な視点から包合する「ワールド・ミュージック」という視点にまで達した。
 「アフリカ音楽」という音楽はアフリカにはない。その土地にはその人びとの音楽があるだけだ。名前もない。「アフリカ音楽」は欧米人が、ある地域の音楽をひとつのくくりにして差異化をおこない、作りあげたものだ。かくして、人びとは「アフリカ音楽」というものを実体化してとらえるようになり、初期ハリウッド映画のなかでのように、西アフリカもマグレブもない、太鼓を叩いて精力的に踊るといった「アフリカ音楽」のイメージをばくぜんともつようになる。
 その後、民族音楽学が出現したとき、西洋の芸術音楽以外の世界のさまざまな人びとの音楽が平等な視点でながめられることが期待されたが、民族音楽学という発想そのものが、最初からヨーロッパ外の音楽との差異化から始まったものであり、この平等主義はどこかで差別主義へと変わらざるをえなかった。このあたりは、最近のカルチュラル・スタディーズ寄りの民族音楽学においては、大きな問題点として議論が始まっているが、いまはここまでにとどめておこう。

 こうしたグローバル化のコンセプトの中心にあるものはなんだろうか。いまのところ私は、これはけっきょく「ヒューマニズム」という言葉で表現できるのではないかと考えている。このような考えを私がもつようになったのは、1960年代から始まったポストモダンの思想、とりわけミシェル・フーコーの哲学の影響ゆえであることは確かなのであるが、同時に私が日々、音楽に接しているなかでの切実な実感からでもある。
 私が考えるこの「音楽におけるヒューマニズム」とはおおざっぱにいえば、次のような信念によるものである。

  • 人間は基本的に身体において同じつくりであるように、心的にも同じなりたちをしている。
  • 音楽は表面的には、文化によって差異はあるものの、深層においては共通である。
  • ゆえにひとは異文化の音楽も理解しあえるようになる。

 これらのことは、いっけん疑義をさしはさむことに意味がないようにみえるほど、当然のことと考えられるかもしれない。でも、視点を変えてみると、人間は心的にはそうとうに異なっている。エモーションがその文化のなかでどうマッピングされているかは、地域や時代によってかなり違う。たとえば、「わびさび」などといっても、江戸期以前の人にとってはなんのことかわからないだろう。ケチャに興じているバリ人が、その音楽は明るいか暗いかと聞かれても、きょとんとすることだろう。
 しかしながら逆に、これらのことを明確に否定できるのかといえば、それもできないだろう。人の心にはもちろん共通な部分があるし、民族音楽学者ジョン・ブラッキングのいうように音楽に共通性を措定することには、私も賛成である。異文化を理解する努力も、いうまでもなくたいせつだろう。ただ同時に、こうした素朴なヒューマニズムには、おたがいに理解しえないことについての配慮がどうみてもとぼしすぎよう。つまり、哲学者エマニュエル・レヴィナスのいう、われわれ自身が他者というものを作り出し、その了解においてどうしても暴力性を介在させてしまうという、その痛みの感覚が、ここにはみじんもない。その結果、平板でおおざっぱな人間理解や、音楽のとらえ方がひとり歩きし、ヒューマニズムというひとつの簡便なイデオロギーにまで発展して、人びとを動かしている。私が問題にしているのは、このようなおおざっぱな音楽の感性のあり方である。
 タレントさんがいっしょうけんめい走れば、地球はよくなるという単純な信仰と似て、音楽の感動といっても、涙を誘うその場かぎりのセンチメンタリズムにおちいりやすい。そんなことはジャーナリズムや商業主義のなかだけの話だといわれるかもしれないが、しかしながら、それが音楽文化全体にまで敷衍され、音楽消費だけにとどまらず、音楽教育や音楽療法のような世界においてもこのイデオロギーが色濃く力を発揮していることを、私はどうしても放置することができないのである。

 音楽において情動が重視されるようになるのは18世紀ごろからだろうか。バッハの受難曲では、キリストの苦悩や悲しみが音楽として表現されている。それは、キリストもまた、われわれと同じように感じ考えるという人間観なしにはなしえなかったものだろう。そういった感性が拡張され、いまでは情動言語化されたポップスの和声進行にまで発展した。つまり、同じような情動効果を得るために同じような和声進行が繰り返し使われるようになったのである。そして、音楽とは一義的に情動にかかわるものであるという信念が普遍的原理となり、ジャーナリズムにおいてのみならず、音楽心理学などの学問や音楽療法の基礎の形成にまでかかわっていたりする。
 情動言語化された音楽語法はとても使いやすい。中世の時代の対位法を学ぶことにくらべたら、ポップスのコード進行を学ぶことはどれほど簡単なことだろう。多くの人がバンドを始めてほどなく、オリジナル・ソングを作れるようになるのも、このテクノロジーの発展のおかげである。
 私はそれらすべてを具合が悪いこととばかりとらえているつもりはない。ただ、このヒューマニズムが音楽のもつ可能性のある部分を、おおいに疎外しているのではないかと考えているのである。

[参考文献]
 レヴィナス、エマニュエル:『レヴィナス・コレクション』、筑摩書房、1999
 ボールマン、フィリップ:『ワールドミュージック/世界音楽入門』、音楽之友社、2006
 Agawu, Kofi: Representing African Music, Routledge, 2003
 Clayton, Martin (ed.): The Cultural study of Music, Routledge, 2003

第2回 クラシック音楽という生政治

 1802年、ベートーヴェンは楽譜にみずから「まるで幻想曲のようなソナタ(Sonata quasi una Fantasia)」と記して、2曲のソナタを発表した。このうちの2曲目が、のちにベートーヴェン最大のヒット作のひとつ《ムーンライト・ソナタ(月光ソナタ)》となる。
 アメリカの新音楽学の旗手のひとり、ローレンス・クレイマー(Lawrence Kramer)は、『音楽の意味』(Musical Meaning, University of California, 2002)のなかで、この曲がどのような意味づけの過程をたどったのかについての考察を試みている。  誰もが知るように、この曲についてはさまざまな伝説があるが、それらは現在ではすでに、まともに顧慮されてはいないと考えていいだろう。だが、クレイマーの考察は、これまでの伝説の常識を越えた《ムーンライト》のポスト・モダン的解読としてたいへん興味深いものである。
 まず、この作品27の2曲は、当時としては思い切ったコンセプトを打ち出した実験作であった。27-1(ソナタの番号では第13番)も27-2(同第14番)も、のっけから、ソナタの定番であるアレグロで始まっていない。とくに27-1のほうは、切れ切れの断片がつながってゆく、のちのシューマンのような作り方であり、当時からみればかなり大胆といわねばならない。
 問題の27-2のほうであるが、ベートーヴェン自身とその時代の人々にとっては、このソナタの主眼はまずは激しく速い第3楽章にあったようだ。静かで動きのないアダージョから始まり、かわいいアレグレットをはさんで、終章でいっきに怒濤のクライマックスを迎えるという仕掛けで、その直線的で単純でちょっとパンクな感じがベートーヴェンらしい。いずれにしても、作曲家自身にとっても、その時代の聴者にとっても、勝負は第3楽章だったことは当時の評論などからも明らかのようだ。
 この曲の第1楽章のみが切り離されて、リラクゼイション・ミュージックとして別格の地位を獲得するまでには、じつは複雑な過程がある。まず、焦点が第3楽章から第1楽章へと移され、あのC♯マイナー・コードの3連符に「崇高さ」のような概念が植えつけられる。
 次いで、その崇高な音楽に、悲しさやメランコリックな情動が付加される。ベートーヴェン自身の悲恋のお話や、詩人のレルシュタープが1832年に書いた月光とスイスの湖のイメージが付け加えられるのもベートーヴェンの死後のことだ。しかし、クレイマーによるとこのレルシュタープのイメージは、当時の画家、カスパール・フリードリヒの描くようなむしろ寒々とした光景であったそうで、いま普通に思い描かれるようなイメージはその次の、ノクターン的性格が付け加わった段階のものである。
 そしてそのまた次の段階として、そのパストラール(田園的)な《ムーンライト》のイメージに、こんどは性愛の要素が付け加えられるようになる。クレイマーはそれを、「ピアノにおける性愛の誕生」とよんでいる。当時、ブルジョワ家庭の居間に置かれたピアノはたんなる楽器ではなく、恋愛や結婚生活など性愛にかかわる象徴的意味をもったのである。この時代、ほの暗い部屋でピアノを弾く女性とそれを聴く男性といった、ピアノを大道具とした19世紀的なロマンティック・ラヴを暗示する絵が描かれたり、《ムーンライト》を小道具にしたトルストイの『結婚の幸福』のように、ブルジョワ家庭における結婚とその波乱を描いた小説が書かれたりする。共演するヴァイオリニストと妻の関係を邪推し、嫉妬に燃え、ついには妻を刺殺してしまう有名な《クロイツェル・ソナタ》もこの流れのひとつととらえるべきものだ。
 この19世紀に発生した「エロティックな意味を発生するメディアとしてのピアノ」という概念は、なにとはなしにわが国においては音大文化のなかに温存されているような感じはあるものの、いまではこのC♯マイナー・コードの3連符からは、崇高さも悲恋の話も洗い流され、リラクゼイションやヒーリングの音楽の定番として、また新たな役割が与えられている。
 この過程をみると、いかに人々が音楽にたいして恣意的に意味を貼り付けてきたかがわかる。《ムーンライト》のたどった数奇な運命は、見ようによってはなにかの気まぐれの結果のようであり、あるいはこのような言説がなかったら、この27-2は中期のぱっとしないソナタのひとつという評価に落ち着いていた可能性もとても高そうだ。
 ついでながら、日本の戦前の修身の教科書に載せられていたエピソードを紹介しよう。月明かりの街をベートーヴェンが歩いていると、ピアノの音が聞こえてくる。ふと見ると盲目の少女がピアノを弾いていた。ベートーヴェンはそれに心を動かされ、そのピアノで即興演奏を少女に聴かせ、さらに一目散に家に帰って一気呵成に書き上げたのが《ムーンライト・ソナタ》である、というお話である。これについて團伊玖磨氏が指摘していたことだが、月夜の晩にベートーヴェンがどうにかして人の家に入りこみ、月明かりのなかピアノを弾いている少女が盲目であることを瞬時に判断するなど、どうにも状況に不審さがめだつので、これは誰かの作り話だろうということになっている。前述の《ムーンライト》言説から性愛が払拭され、「耳なし芳一」や「一杯のかけそば」のような話がいっしょくたになった感じがなんだか和製っぽい。ところで、私にとっていまだ謎なのは、このお話で為政者は日本国民にいったい何を教えようとしたか、ということである。
 クレイマーはこの例から、クラシック音楽というものがいかに言説の上になりたってきたものであるかということを論じようとしている。クラシック音楽とは、音楽というテキストにさまざまなディスクールが貼り付けられたものであるというのが彼の主張なのだ。
 私はさらにここに、音楽がなんらかの人の生き方をさし示すものとなっていったこの時代の動きも感じとる。モーツァルト時代ぐらいまでは、音楽はなかば他愛もない遊びであったのだが、その後音楽はどんどん道徳や倫理などを包含するようになり、私の言葉でいえば「正しい音楽」がさまざまに発展していくことになるのである。それはたんなるC♯マイナー・コードの3連符に、さまざまな市民的良識的感性を貼り付けていった過程ととらえてみれば、この動きをいわゆる生政治的な音楽感性の管理の成立過程とみることにさほど無理はない(註)
 ベートーヴェンはその音楽とともに、生前から正しい道徳を標榜する人として祭り上げられてゆき、晩年にはみずからもその気になって第9交響曲を書いてしまうにいたった。指揮者の岩城宏之氏が最晩年、この曲について、第3楽章の美しさはたとえようもなくすばらしいが、第4楽章の馬鹿馬鹿しさはどうしようもない、と述べていたことを思い出す。9.11以後のいまの時代となっては、高らかなる「人類みな兄弟」の歌声は、まだそのような楽観がゆるされていた過去の時代のものとしてしか、受け取る者はいないだろう。
 ベートーヴェン以後、クラシック音楽は正しい生き方とつねに重なるものとなっていき、教育や音楽療法のバックボーンとして位置づけられるようになる。沈静したりリラックスしたりするときにも、ある種のクラシック音楽が重用されるが、それはその音響の特性のゆえのみではなく、その背後の思想性もおおいにあずかっており、常識的に考えられているように、偉大な人類の芸術遺産と考えられたからだけではない。人をして正しい生き方に律するための正しい音楽だったからなのである。

註 生政治とはミシェル・フーコーが提唱した概念で、近代以後の人々の管理装置として働く、目に見えない政治権力の働きのことである。その考えはさらにジョルジュ・アガンベンやアントニオ・ネグリらに引き継がれ、現代社会を読み解く重要なキータームとなってきている。私の知るかぎり、西洋音楽の生政治性の最初の指摘は平井玄によるものであるが(「ドゥルーズ/サイード」、小泉義之他編『ドゥルーズ/ガタリの現在』平凡社、658頁)、人間の正しい生き方と音楽を重ねてとらえる考え方はプラトンの音楽論(エートス論)以来、西洋音楽では昔から続いているものともいえよう。

第3回 近代西洋音楽と生政治

 ベートーヴェンに代表されるような、モラルとかかわるものとしての音楽は、その後、他愛もない遊びのようなロココ様式のモーツァルトの音楽にも拡大され、天真爛漫な子どものような純粋さとして、モラルのストーリーのなかに位置づけられる。バッハの場合はどうだったか? 1820年代から始まったバッハの復活演奏が、その当時の人びとには、じつのところ、ただただわけのわからないお堅い音楽に聞こえたのは無理からぬことだ。なので、なにやらわからないけれど偉い音楽という地位があたえられ、崇高さや宗教性や深さとともに語られるようになった。これは基本的にいまも変わっていない。その後、バッハの音楽は長い時間をかけてロマン派的心性に近づけるべく工夫されヒューマナイズされ、今のような演奏スタイルになっていった。
 こういった動きには19世紀のドイツ教養主義の影響がおおいにかかわっているし、またこんにちにいたるまでのドイツ音楽優位の思潮もこのあたりで作られていったようなのだが、これについてはほかでも少しずつ議論されはじめられているのでスキップすることにし、ここでは次のような生政治(第2回を参照)にとくにかかわる側面についてのみ注目しておきたい。
 ドイツ音楽にたいしてドイツ人が特別な意識をもつようになるのは、19世紀の半ばあたりのことだが、やがて20世紀になり、1938年には第三帝国の宣伝相、ヨーゼフ・ゲッペルスが大規模な音楽集会において、音楽こそがドイツの輝かしい遺産であると高々と国民に宣言するにいたるまでになる。
 音楽学という学問の基礎が形成されていったのは、そういった第一次世界大戦後のワイマール期からナチス・ドイツの時代にかけてだった。比較音楽学とよばれる今の民族音楽学のもとになった学問分野もこの時期に作られる。もちろん、ここでいう「比較」とは、さまざまな世界の音楽を比較するということなのだろうが、真意は「西洋音楽」と「非西洋音楽」の比較にある。
 こういった動きのなかで、さらにドイツ音楽がドイツらしいといわれる、その所以についての研究がなされたりもしている。たとえば、フリッツ・メッツナーはドイツ民族音楽の音感が明確に長調と三和音であるのに対し、北欧の民謡は短調や教会音階や半音階に傾く理由を、なんと頭蓋骨の形に求め、短頭蓋骨系であるドイツ人は長調系、長頭蓋骨系である北欧人は短調系、という理論で説明を試みている。ほかの短頭蓋骨系のモンゴロイド族が5音音階と長3和音的メロディをもつことが例証としてあげられ、いっぽうペルシャ人、インド人、アラビア人が北欧の長頭蓋骨系と共通する例としてあげられている。笑い話ではなく、これは1938年に提出された博士論文なのである。もちろんのことだが、いままでのところこの説を裏づけるような研究は見あたらない。アーリア人という人種の優秀さとドイツ音楽の優越性を結びつけることが求められた、この時代の特殊な事例ということになるだろう。
 しかし、異常な時代ゆえと片づけてしまえる問題でもない。よく似た発想がじつはわれわれの時代にもまだ残っていることをここで指摘しておくべきだろう。たとえば、日本のクラシック音楽の世界でひんぱんに聞かれる、日本人の歌声がイタリア人のベル・カントのようにならないのは、骨格や体格などが異なるからである、というような言説である。まことしやかに聞こえるが、いままでに誰かがほんとうに解剖学的で科学的な研究をしたという話は聞いたことがない(考えただけでうんざりするが、じつは私が知らないだけで実際にはあるのかもしれない)。同様の発想は、あらゆる面においての日本人とヨーロッパ人の音楽上の差異について語られるときにしばしば使われるが、もちろん日本のみにかぎったことではあるまい。文化が異なれば、その差異はもちろん音楽の上にも表れてとうぜんであるが、人種主義にまで至るところになにやら問題を感じる。
 ポピュラー音楽がなりたっていったのも、そういった音楽学の黎明期である20世紀前半のことで、これには放送や録音といったメディアの発展がおおいにかかわっている。ポピュラー音楽は、オペレッタやミュージカルのようなクラシック音楽と大衆音楽の中間にある音楽や、映画で歌われた歌や民衆のはやり歌のようなものを吸収しながら発展し、1950年代には今のようなポップ・ソングのスタンダードな形ができ、その後アフロ=アメリカン音楽のノリ(現在の8ビートのポップ・ロック)を加味してグローバル化されてゆく。1曲が4、5分で終わるのは、当時のSP盤やドーナツ盤などメディアの収録時間の都合によるものである。連続で1時間はゆうに入るCDの時代になっても、なぜかこのスタンダードは変わらない。
 ドイツの社会学者、アドルノはポピュラー音楽は芸術性や精神性に欠けるという観点から、それを低い位置においたが、ポピュラー音楽のアドヴァンテージはまさに、芸術性や精神性のようなドイツ音楽的大義から解放され自由になったことにほかならない。それにせいせいしたように、その後ポピュラー音楽はクラシックとはくらべものにならないほど大きな市場を獲得してゆくことになるが、それを可能にしたのは、杜こなてが指摘するように、その大義を現代音楽に背負わせることができたからだろう。
 芸術性や精神性に代わってポピュラー音楽が背負わされたのは、短時間内に情動を供給するという役割である。考えてみればこれもやっかいな仕事ではある。数分で人の情動を効率よくつかむようなキャッチーな言葉と音が求められるのだから。それゆえ、どんなに労作であってもヒットするかどうかは運にかけるしかないし、1曲の寿命も長くない。
 芸術性という大義においては、クラシック音楽とポピュラー音楽とではおおいに性格を異にするが、音楽技法の点では現代音楽にくらべればずっと共通性がある。どちらも調性と三和音による和声、そしてそれによる情動操作に依存しているので、ちょうどそこから逸脱していくところだった現代音楽は、芸術性というやっかいな役割を押しつけるには好都合な存在だったにちがいない。現代音楽の側も、さほど聴衆を獲得できない音楽の大義をなりたたせるには芸術性というマジックに頼るしかない。まるで聴衆からの支持のなかったシェーンベルクの音楽を、『新音楽の哲学』を書いたアドルノだけでなく、意外に多くのドイツの批評家がもちあげたのは、芸術性というものへの彼らのひとかたならぬ固着ゆえであろう。
 ポピュラー音楽が現在使っている和声技法は、基本的にロマン派の音楽によって開発されたものであるが、のちにコード進行の技法へと単純化され、バークリー・メソッドのように一種の普遍原理のような体裁にまでまとめあげられるようになってゆく。
 ロマン派音楽とポピュラー音楽の和声進行でやや異なるのは、クラシック音楽ではメロディとバスの関係に微かに残っていた対位法のなごりが、ポピュラー音楽ではほとんど消滅し、1小節1和音のように和音の進行が拍節とシンクロし、より単純化したことだろう。その結果、コード進行による情動の類型的表現が発展する。とうぜんこの類型により、似かよった曲が大量に作られてゆくことになる。
 この類型にはそれほど多くのヴァリエーションはないので、目の前に並べられた音楽という商品のなかから好きなものを選ぶというスタイルが、人びとの音楽行動として確立されてゆく。この現象をどのようにとらえるかは立場によって変わるだろうが、現在の音楽社会学の重要な課題であることはまちがいない。人びとが音楽から得たいと願っている共感と供給される音楽の情動とのあいだのずれを個人的に調整する過程によって、この音楽行動がなりたっていることも確かだ。そしてこのずれの調整は、うたとこころの関係に微妙な関係をおよぼしている。歌はわたしの心を代弁してくれるいっぽうで、楽しいとか悲しいとかの気分がどのようなものかをわたしに教えてもくれる。つまり、ポピュラー音楽は人の情動を社会的に管理するための一種のツールになってきているとも考えられるのである。
 ポピュラー音楽のビジネス市場はまだ巨大であることには変わりはないが、昔のようなヒット作が徐々に減少し、若者もCDや音楽にさほどお金を使わなくなってきているのは、そろそろ数十年間使用されてきたポピュラー音楽という装置も終焉に向かいはじめたことを表しているのかもしれない。
 上記のような民族アイデンティティや情動の管理の問題は、人の生にかんする社会による制御という意味で、生政治的な現象と考えるしかない。確認しておきたいことは、近代西洋音楽というイデオロギーのなかに、上記のような生政治的な側面が最初からそなわっていたということであり、それが姿を変えながらさまざまに表れていることである。それはなぜかということについてはまだ多くの検討を必要とするだろうが、ひとつにはマックス・ウェーバーが指摘したように、近代西洋音楽が合理性という道具的理性によって突き動かされてきたことがあげられる。啓蒙や合理性が一種の暴力性をもちうることは、アドルノとホルクハイマーの指摘やアウシュヴィッツの悲劇をもちだすまでもなく、もういまでは誰もが空気のなかに感じていることにちがいない。

[参考文献]
 石井宏:『反音楽史』、新潮社、2004
 Potter, Pamera M.: Most German of the Arts, Yale University, 1998
 杜こなて:『チャップリンと音楽狂時代』、春秋社、1995

第4回 ノイズ、ブルース、生政治

 人類史のなかで、音楽がどのように始まったかは定かではないが、その始まりには混然たるノイズから明瞭な差異のある音への志向があったと考えるのは自然だろう。一定のピッチや拍の発見は、いずれもその音を自然界にあるノイズから差異化するために実現されたことだ。なぜなら、どちらも自然界には存在しないものだから。音響がこのように差異化されていなければ、ふたたび自然界のノイズに埋没することになるのみだ。  歌ったり、リズムを打ったりすれば、自然界のノイズからは弁別できうるサウンドが立ちあがる。ドゥルーズ=ガタリの言葉を借りれば、これがリトルネロであり、領土化の第一歩ということになる(註)
 音楽はノイズから立ちあがり、なんらかの発展をしていった、というのがここでの議論の前提である。いまではノイズ・ミュージックなどが盛んで、ノイズにもじゅうぶんな発言権が認められるようになってきているが、それを理解するには、それ以前に無反省に進められてきたノイズの追放という思想を振り返る必要がある。
 音楽の始まりが、ノイズから弁別されうる音の探求だとするなら、次にはその音からノイズ性をできるだけ消去し、さらにピュアな信号となることをめざすことになる。かくして楽器は、明瞭なピッチを生みだせるよう、あるいはその音の信号成分をできるだけ明瞭にするよう、つまりノイズ成分をできるだけ抑えるように改良されてゆく。
 しかしながら、じっさいに歌ったりリズムを打ったりしてみればわかるが、そこにはどうしてもノイズの混入が避けられない。息のように、発声行為に不可避的に混入する音だったり、ものを叩いたときに生じる望まれない不規則倍音だったり、めざした音と出た音との音程やタイミングの誤差だったりとさまざまである。
 近代の西洋音楽文明では、ノイズの排除のために科学がふんだんに動員されることになる。そして、正確なチューニングのために周波数測定をしたり、基音と整数倍音のみを取り出して不規則倍音をミニマムにするためのさまざまな工夫が進んでゆく。それはやがて音楽の構成システムにまでおよび、倍音を基礎とする三和音の理論などにも一種の科学性のようなものが導入される。そのもっともはなばなしい成果は十二平均律の発明だろう。
 物理学的法則である倍音の原理は、紀元前の時代から理解されていたことなのだが、音階を標準化することはたいへんな難事業だった。どこかを調整すると別のどこかにゆがみが生じる。さまざまな調律方法が開発され消えていった調律の歴史に決定的な終止符を打ったのは平均律の登場だった。だが、その実現のためには、音階というものから神秘性や情緒性をはぎ取り対象化する啓蒙思想の進展と、2の12乗根をもとめる計算を可能にする数学の進歩が必要だったのであり、それには17、18世紀まで待つ必要があった。
 こういった西洋音楽の姿勢に対し、非西洋世界では、楽音とノイズの関係を宿命のごとく受け入れ、一種の共生関係なりたたせる道を求めた。西洋のようなテクノロジーをもたなければ、とうぜんこの道以外は残されていない。歌えば息の音はするし、音程もはずれる。どんなものからも非整数倍音は生じるし、どんなに正確に打っても拍は不均一になる。このようなノイズ要素との共存は、音楽というものを、あえていえば一種平和なものにしている。うまいへたは多少あっても、誰でもが参加可能だし、気軽に楽しむことができる。これは、西洋音楽が捨ててしまった潜在性のひとつである。今となっては、これを取り返すことはけっこうな難題だ。
 回避しようにもあまりに近くに来てしまったので、ここらで、上記の論の補足として、ロラン・バルトの「声のきめ」という文章に寄り道する。バルトはパンゼラとフィッシャー=ディースカウの声を比較し、パンゼラの声にある口腔や歯や鼻など、ようするに発声器官が発するノイズが、フィッシャー=ディースカウの声では排除されていることを指摘し、パンゼラの声のノイズ性の意味を論じ、フィッシャー=ディースカウの歌は平面的でつまらないと論じている。歌を歌うということは、テクストとしての歌と、実際の音響としての歌の両面を実現することであるが、その両者を切り分け、ノイズの側を徹底的に排除するのが、フィッシャー=ディースカウに代表される近代以後の音楽と演奏に共有される方向性なのである。
 このようなノイズの排除によって獲得されたのは、一種の合理性と普遍性であるだろう。ガムランのアンサンブルは楽器のセットごとに調律が異なるので、隣村のアンサンブルと合同演奏をしたいと思っても無理な話だ。西洋音楽文化においては、ホルン奏者がひとり風邪をひいても、その日予定のあいている代わりの奏者をひとり手配すればことたりる。どの国のどのメーカーでも、ホルンの調律は同じだからだ。音の高さと時間を縦軸・横軸で表したグラフのような五線記譜法を使えば、読み取り方さえ学べば、音楽の外様をまあだいたいはつかめるようになる。別の場所に譜面を持っていっても再現できる。このような合理性ゆえに、西洋音楽とその考え方は世界中に普及することになった。これがノイズの排除という生政治の成果の一端である。
 ノイズの排除は楽音からのノイズの排除のみならず、音楽の構造や微妙な口承的要素の合理化にまでおよんでいった。装飾音などにみられるパフォーマンス・プラクティス(演奏習慣)は標準化され、記譜によって明示されるものとなり、譜面化できない即興性も排除されていった。こういったことをもう少し概念化していうなら、それは音楽からの身体性の排除ということになるだろうか。いや、そもそもこの生政治は、音楽という行為のなかでの生の管理なのである。啓蒙思想の普及と並行して、ある時代以後、音楽から祝祭の狂気や暗黒や静寂の危険が消えてゆく。それに代わったものが絶対音楽や音楽の自律性や芸術至上主義といったヴァーチャルな場である。そして宇宙にまで解放された自由さとその代価としての一種の危険さを秘めていた音楽は、芸術という安全なヴァーチャルなリングのなかでの闘いへと移行する。音楽からは危険さは失われ、芸術という安全なゲームが始まる。音楽は生政治の管理下におかれ、武装は解かれたのだ。
 なぜこのようなことが起きたかは、これからの検討課題であるのだが、いまのところフーコーによる近代の生の管理の議論を借り、それが音楽にまでおよんだという説明にとどまるほかない。だがこれは、少なくともおもしろみに欠ける結論だろう。音楽に特権的な地位をあたえる時代は終わったものの、かといって社会文化に従属させるだけでは、少なくとも音楽そのものをよりおもしろくすることにはつながりそうにない。
 ブルースという音楽は、こういったノイズの排除について考えるときに、ある有効な視点を提供してくれると思う。レッドベリーなどの初期のブルースからもっとのちの12小節パターンへの整理の過程は、もちろん上記の合理化によるノイズ排除の原則に従うものだ。生政治の対象となったことはブルースも例外ではない。しかしながら、ブルースという音楽のハイブリッド性は、そんなにヤワなものではなかった。ブルースの音階とそのハーモニーのあいだのずれは、いまでも合理化をはばんでいる。たとえば長3和音上にのっかる短3度の音程は、♭10thとも♯9thとも説明されるが、その不合理さを回収しきれるものではない。
 西洋近代の発想による理論化という生政治的管理をくぐり抜けたブルースは、西洋的な音楽語法としては強度を異例に保ちつづける。得体のしれないブルース・シンガーという人たちから始まって、バップ・ミュージシャンがジャズ語法に、プレスリーが軽薄な恋歌に、ビートルズやストーンズが意味ありげなロックに、ジェームズ・ブラウンがノリだけのファンクに、さらにR & Bに……いったいどれだけの音楽がここから生成してきたことだろう?
 これははからずも、西洋音楽のドレミとドミソのシステムに、異種の音楽をむりやり詰め合わせた結果生じた矛盾ゆえに生まれた力である。ブルースはこの力によって、西洋近代音楽の生政治からかろうじて逃走しえた数少ない例外のひとつかもしれない。もちろん、ブルースに特権的な地位をあたえたところで、問題は解決しない。だが、アーバン・ブルースのあとにわれわれに残されたポスト・ブルースとは?──と、ちょっと考えてみるのも悪くはないだろう。

註 ドゥルーズとガタリは、暗闇で子どもが歌をくちずさみはじめる話から、混沌とした世界に自分の落ち着く領域を確保しようする行為を領土化ということばで概念化し、それを芸術表現行為の始まりと論じる。この領土化においてなんらかの反復により形が生じることをリトルネロとよぶ。やがてそれは運動性をもとめてカオスに向かって開かれる。これが脱領土化である。芸術表現行為はこのような領土化と脱領土化の繰り返しにより、生成変化してゆく運動とドゥルーズとガタリはとらえる。このような芸術のとらえ方はアヴァンギャルドな芸術の意義を大きく認めるものなので、多くの現代芸術家たちから支持されている。

[参考文献]
 菊地成孔、大谷能生:『東京大学のアルバート・アイラー──東大ジャズ講義録・キーワード編』、メディア総合研究所、2006
 クロード・レヴィ=ストロース:『生のものと火を通したもの』、みすず書房、2006
 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ:『千のプラトー』、河出書房新社、1994
 ロラン・バルト『第三の意味』、みすず書房、1998

第5回 楽しい音楽

 西洋音楽という管理化された音楽から生じたもののひとつが、「楽しい音楽」という思想である。人は音楽を好んでおこなうが、それをすべて「楽しい音楽」とよぶのはどうみても適当ではない。だが、誰にとっても「楽しい音楽」というものが、ほんとうにあるかのごとく語られ、「長調でリズム的に軽快な音楽」として類型化されたりしている。
 初期の音楽心理学では、こういった音楽と情動のつながりを一種普遍化してとらえ、「人は長調で軽快なリズムを、明るく楽しいと感じる」といった説に定式化する傾向があった。もちろんそれは西洋音楽が普遍的であるとする世界観におおいに依っているのであるが、楽しい音楽の思想がなりたったのちに、その影響下で音楽心理学が発展したからでもある(さすがに最近ではそういった傾向への反省から、スキーマ理論などを援用して、音楽の情動も、繰り返して刷りこまれることによってなりたつという見解にかたむいてきているのだが)。
 言葉の問題もあるのかもしれない。私にとっては「音楽をすることは楽しい」と言葉にできるのだが、それは一般的に悲しい音楽といわれている音楽(たとえば葬送行進曲)を弾くときでも楽しい、ということだ。この場合の「楽しい」は、興味がある、刺激的である、おもしろい、という意味に近い。明るく、高揚した気分をさす「楽しい」と、よく混同されて使われる。「楽しい音楽」というときの意味はいうまでもなく後者のほうである。
 また、どんな音楽にも喜怒哀楽の指標があてはまるわけではない。たとえば、バリ島のケチャは楽しい音楽なのだろうか、それとも悲しい音楽なのだろうかと考えても、それは無意味な問いである。バリ島人に訊いても質問の意味からしてわからないにちがいない。もちろん、バリ島のケチャには、前述したような刺激的、おもしろいという意味での楽しさはあるが、後者の意味はあるように思えない。
 ならば「楽しい音楽」は、西洋音楽に特有のものということになる。では昔からこの思想があったのかというと、少なくともグレゴリオ聖歌などの旋法音楽では、楽しいか悲しいかを問うてもあまり意味はなさそうである。音楽で楽しさ、悲しさの表現を意識するようになったのは、平均律と三和音が使われるようになったもう少しあとのことのようだ。
 そして、いつしか「楽しい音楽」は、動物行動学でいうようなリリーサー(自動的に固有の反応を引き起こす信号刺激)のように人にはたらき、人を明るく楽しく幸せな気分にするという信仰のようなものができあがった。ここから出現したのはミューザックやBGMのような、チアフルな音楽群である。こういった音楽ジャンルや考え方はいまではやや廃れ、初期に考えられたような工場などでの生産性向上のための音楽再生はほぼなされなくなったものの、「楽しい音楽」はいかなる人も楽しくさせる、という思想だけはそのまま残り、街を歩くとこのたぐいの音楽を無差別に浴びせかけられることとなる。
 もちろんこういった現象に対し、サウンドスケープ論のような批判的立場が生まれ、それがあるていど認められてはきている。ただ、マリー・シェイファーのサウンドスケープ論の問題点は、ものごとをあまりにも単純に音響と人間のかかわりでとらえすぎているところだ。都市の音環境が劣化したのは、現代人の耳が劣化したから(だけ)ではない。もっとも重要なことは、音文化の中心的位置にある音楽にかんする感性が変化したことだ。
 この「楽しい音楽」思想が現代社会の音楽状況全体に大きく影響力をもってしまい、音楽教育や音楽療法の土台にも忍びこんでしまっていることは、驚くほど見過ごされているのだが、これについては、また別に論じることにしたい。
 「楽しい音楽」の思想と、クラシック音楽とポピュラー音楽という対立項の発生は並行している。クラシック音楽にはじつは辛気くさい音楽も多くあり、それを一括して「楽しい音楽」というには無理があるからである。そこからポピュラー音楽=快楽、クラシック音楽=教養という対立項のようなものがあらわれはじめ、さらにそこから大衆性-芸術性という対立の図式が成立する。アドルノ以後、現在の音楽状況は多くこの二項対立のなかで語られるようになり、この解決こそが現代の音楽文化の課題としばしば考えられるようになった。ものわかりのよいクラシック音楽の啓蒙的活動や、逆に芸術性を意識したと思われるやや高級そうなポップスなどが試みられるようになるのだが、このいずれもが「楽しい音楽」思想から生じているものだ。
 こういったときに音楽家が使うのが、音楽はむずかしいものではない、虚心に聴けば誰でもわかるものである、音楽を愛することは人生を豊かにする等々の言説であるが、これこそまさにこの連載で問題にしようとしている音楽ヒューマニズムという思想の核心と密に接したものだ。アドルノのように、音楽にはむずかしくレヴェルの高いものもあり、その理解には一定以上の修行やトレーニングを要するなどといえば、すぐさまエリート主義的と批判されることになるが、少なくともアドルノは正直であることはまちがいない。しかしこのような態度は、大衆性-芸術性の二項対立の解消という時代の大命題(つまり「楽しい音楽」という管理思想のヴァリエーション)に逆らうことになるので、社会的には反逆者かすね者と位置づけられよう。音楽の世界で生活をするには、とにかく現存の音楽を肯定する態度を示し、いまの音楽文化に課された生政治的管理性に従順さを示す必要があるということである。アドルノは批判の哲学をつらぬきとおしたので、学者としてはともかく、ジャーナリズムにおいては成功しなかった。音楽業界があのような辛気くさい評論をのぞまないのは、守るべきコードが存在するからにほかならない。
 たとえば、吉田秀和のような評論家が、演奏家や作曲家たち以上に、かくも大きな影響力をもつにいたった経緯は、19世紀半ばから始まったドイツ教養主義を起点とするものだろう。そこでは、以前にとりあげたクレイマーの指摘のように、西洋芸術音楽は音としてのみではなく、そこに付加された言葉(情動の意味するもの)と一体化して成立するものになっていった。やがて付加されるディスクールが音以上の重要度をもちはじめると、そのディスクールを作りあげ、更新する立場が必要になる。それが音楽評論である。
 あるときは多数派のぬるま湯的状況に鋭い批判を投げかけ、必要な場合は果敢にもなまいきな若僧作曲家を擁護したりもするが、じつはこのようなディスクールの重層化によって実現されていったのは、音楽についての隠された規制コードであり、その重要なもののひとつが大衆性-芸術性にかかわるコードなのである。
 重要なことは、この対立が19世紀後半から西洋音楽に生じはじめた矛盾から始まったということである。それは芸術音楽と大衆音楽の分離の顕在化という、ちょっとやっかいな現象である。なぜならこの断層は、芸術音楽のめざしてきた音楽の自律性や絶対音楽という一神教化した音楽思想にとって、きわめて都合のわるいものだからだ。ここに生じてきたのが、大衆性-芸術性の対立の克服という、いっけん弁証法のような体裁をまとった新たな課題なのである。だが、考えてみればわかるように、これは近代西洋芸術音楽がその出発点から抱えこんできた根深い問題であり、個々の音楽家のいかなる努力によっても解消できるものではない。にもかかわらず、この問題を音楽家の側にひたすら押しつけているのは、西洋芸術音楽の勝手な都合によるものとしかいいようがない。さらに注意すべきことは、この二項対立こそが西洋近代音楽というイデオロギーを延命させるためのひとつの安全装置としてはたらいていることである。音楽家やその他の人びとが、この2項を結ぶ線上で踊っているあいだは少なくとも、西洋芸術音楽というイデオロギーは細々とながら生きながらえることができるというわけだ。
 すでにこういった状況に倦怠する、ある意味で健康な感性は多く育ちつつあるようだ。課題を見あやまってはならない。必要なことは、大衆性-芸術性の対立の解決などではなく、そのまやかしの二項対立からいかに脱出するかなのだ。

第6回 感情労働としての音楽

 こんにち、世界に作曲家とよばれる人が何人いるかはわからないが、そのなかで、自分が作りたい音楽だけを作っている人はごく一部だろう。ほとんどの作曲家はなんらかのかたちで注文を受けて音楽を作っている。注文のある仕事をひきうけないとしたら、教職など他の仕事をするか、ジョン・ケージのように清貧に暮らすしかない。
 この、注文による作曲も、ときたまのことなら、他の仕事のあいまの息抜きていどにとどまるかもしれないが、放送業界においてのように、大量の音楽を一時期に作りあげることになると、これはかなりたいへんなことだ。このような場では多くの場合、調性と三和音を使ったもの──つまり普通の音楽──が要求されるので、同じような音符を同じように並べなければならない仕事がえんえんと続く。必死に音符やメロディを絞り出す努力のすえ、最後にはもう1音符たりとも頭から出てこなくなったりする。
 しかしながら、外部のいかなる制約からも脱し、自律して自分の作品を創りあげるという芸術家のイメージはせいぜい19世紀ぐらいにできたもので、作曲家という職業が出現していらい、注文によらない音楽のほうがずっと少ないのではないだろうか。
 歌手やバンドの名前が少し売れはじめた時期も、事情はやや似ている。ようやく知られるようになった1曲を、連日どこへ行っても歌わされることになるのだが、これもなかなかたいへんなストレスだ。なんらかのかたちで外からのオーダーにしたがって音楽をしている人たちには、多少の差はあれ、同じようなストレスがあり、その解消に多大なエネルギーを費やしているのではないだろうか。あふれるほどの情熱をかたむけて始めた音楽だったはずなのに、限度を超えてそれを強いられるところから、すべてのストレスは生ずる。

 アーリー・ホックシールドという社会学者は、『管理される心』(石川准・室伏亜希訳、世界思想社、2000年)のなかで、感情労働という言葉を使って、現代の労働のある一側面について論述している。彼女が主にケースとしてとりあげたのは、フライトアテンダントの仕事ぶりだ。彼/彼女らは、どのような客にもにこやかな笑顔で接するよう訓練される。彼/彼女らのそのときの気分とはかかわりなく、少なくとも仕事中はつねにそうあらなくてはならない。やがて、もともと表面的な演技であったものが、ほんとうの自分の気分と区別がつかなくなったりするが(これを深層演技という)、これまたきついことなのである。以前、映画のヒットで話題になり、連日マスコミから同じような質問をされ、あるときついに不機嫌そうな表情で「別に」とぼそっと言ったきり黙りこんで話題になった女優がいたが、それは彼女の感情労働が限度を超えてしまったからだろう。その後さんざん非難を浴び、涙の謝罪会見までしなくてはならないはめにまでおちいったのは、彼女が女優やタレントという感情労働者が守るべき就業規定を破ったからにほかならない。
 彼/彼女らの仕事は人のうらやむような好条件であることも多いが、その感情は高い給料とひきかえに商品となり、売り買いされていることになるのである。昔は労働といえばひたすら肉体労働を意味し、マルクスが問題にしたのはたとえば炭坑で寝る時間もろくにとれないような状態で働かされ、体の健康が蝕まれるような状況についてであった。だが現代の労働はもっと複雑で、このような感情労働のために、こころの健康が蝕まれることも憂慮すべき事態になりはじめているのである。
 バッハが教会から注文をうけ、「またオラトリオかよ、たいがいにしろよ、まったくもう」とか、ぶつくさ言いながら書いていたかどうかはわからないし、映画『アマデウス』に描かれたように、モーツァルトが他の仕事より高いギャラでひきうけた《レクイエム》の仕事を納期に間に合わせようと無理をかさねるうちに死んでしまったという話も、ほんとうかどうかわからないにせよ、冒頭にあげた音楽家の例は、どうみてもりっぱな感情労働に属し、しかもフライトアテンダント以上に深刻でさえあるように思える。
 音楽の仕事における感情労働としての側面が強くなっていったのは、もちろん音楽と感情の結びつきが強くなっていくにしたがってのことであろう。19世紀あたりの作曲家がときどきバーンアウトのような症状を呈したのは、「別に」とつぶやいた女優と同様のことなのかもしれない。

 彼ら作曲家への注文にはさまざまなものがあるのだろうが、守らなければならなかったことは、注文主の満足であるのは今も昔も変わらない。モーツァルトやベートーヴェンの作品には、パトロンの侯爵様やその家族の演奏レヴェルに合わせて、パートを書いたりしたものがいくつもある。お嬢様がどう練習しても弾けないようなパートを書いたり、彼らの社交の場にふさわしくないような音楽を書いたりすると、クレームがついたり、次から仕事がこなくなる。このあたり、現代の業界作曲家も様子はさほど変わらない。
 ではその注文主の意向とはなんだろう。昔ならお金をだすのが特定の個人なので、その意向はまだはっきりと注文主個人に帰すことができるようにも思えるが、その貴族のお金はどこからくるのか、貴族は周囲からなにを期待されていたのか、貴族社会ではいかに振る舞うべきか、など、さまざまに無視できない条件がかかわっていることを勘案すると、いかに身分の高い貴族であろうと、それなりに社会に制限されているところは小さくはないことが想像できる。
 では現代ではどうか。前述のホックシールドによれば、それは資本主義社会からの要求であり、その要求はいい換えれば父権的になりたったファミリーの道徳から出発していて、さらに屈曲して、男性中心的な社会のなかでの女性の抑圧という問題にまでたどり着く(フライトアテンダントにかぎらず、感情労働の担い手の多くは女性なのである)。最後のフェミニズム論議については、ホックシールドが拓いた感情社会学のなかでも、賛否両論あるところのようだ。だが、音楽の情動(感情)がどのようになりたってきたかを考えるためには、有効性のある指摘のように私には思える。ファミリーからコミュニティ、そして社会へという構造のなかで感情の社会的管理がなりたつのは、フライトアテンダントの笑顔だけではない。じつは音楽の情動もそうなのである。
 たとえばポピュラー音楽の情動は、それを買う消費者の意向を反映していると通常考えられているが、それは商品としての音楽とその消費という単純な図式のなかでのことである。その消費者の意向はどこから来ているのかについては、あまり議論されていない。あたかもポピュラー音楽は消費者の意向投票によって決まっているかのように論じられることが多いのだが、じつは消費者が反映させたい情動は、社会という管理のフィルターを通過してできあがったものなのである。
 今となっては、わずかの幸福な例外をのぞけば、音楽の情動は資本主義による「世界音楽」という都合のよい管理機構の傘下に管理されており、人びとはそれを買うことによって自分のものにするのであり、さらにその情動が消費者によって濾過され純化され、次に生産される音楽にフィードバックされる。この濾過-フィードバックによって情動はどんどん画一化され、それをリニューアルした音楽の再生産がループのように続く。この過程では、音楽の情動はすでにフライトアテンダントの笑顔のように精選され管理されているので、まちがっても晩年のマーラーのような不健康な情動は混じりこむ隙はなく、咀嚼しやすいファミレスのメニューのように整理され、売られているのである。
 この先には、まださまざまな議論があるだろう。たとえば、ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』で、じつは人間のこころが資本主義によってコントロールされているものであり、それはオイディプス・コンプレックスという、フロイトが画定したファミリーを基底とする人のこころのなりたち方に逆に規定されているという指摘とホックシールドの議論はとうぜん重なっている。

第7回 パイプダウン

 イギリスにパイプダウンという団体がある。この団体はパイプト・ミュージック(piped music。公共空間での録音音楽の再生のこと。いわゆるバックグラウンド・ミュージック)の規制をめざす市民団体である(興味のある人はhttp://www.pipedown.info/を参照されたい)。賛同者のなかで私の知る名前には、ピアニストのアルフレート・ブレンデルや指揮者のサイモン・ラトル、チェリストのジュリアン・ロイド・ウェッバーなどの名前がある。彼らは、現代社会においてもっとも不愉快な音を発するのは、削岩機でも車でも航空機でもなく、いまや音楽であることをさまざまな調査のデータをあげながら主張し、2000年にはこの団体の代表者のひとりである保守党議員、ロバート・キーが法案の提出を試みている。この法案は人びとが自分で選んで出かけるレストランやスポーツ・クラブなどでのBGMまで規制しようというわけではなく、公共交通や市民プールや病院などにかぎったもので、きわめて穏当な要望といってもよいもので、マスコミの注目を集めたものの、けっきょくはまだ法制化にはいたっていないようだ。
 ほかにもこのような指摘や主張をする人は多いにもかかわらず、なかなか実現できないのはなぜだろう。私にはそこに、いまのわれわれの音楽のもつ根本的な問題が潜んでいるようにも思えるのである。

 なぜこのような問題が生じてきたかについて、イギリスの音楽社会学者、サイモン・フリスは、音楽が私的な空間の形成にかかわるものになったためと指摘している。隣の家のパーティでかけられている音楽にいらだたされるのは、それが私的な領域に侵入してくるからである。だが、路上で生で奏でられたり歌われたりする音楽にたいして、いかにそれが技術的にひどいものであろうと、われわれがより寛容でありうるのは、それが社会的なできごとであり、私的空間への侵入の感覚がより薄いからだと彼はいう。この指摘はおおいに意味がある。
 『うるさい日本の私』(洋泉社、1996/新潮文庫、1999)を書いた中島義道氏が指摘する「騒音」は、音楽だけにかぎらないが、簡単にいえばこういった私的空間にたいしての、音楽も含めた他者の声の侵入の問題ととらえることができるだろう。したがって、これはたんなる騒音問題ではないのである。ところが、そのような音にかんしての意味論的な認識が薄いため、「騒音」が物理的なエネルギーとその知覚の問題として処理されてきているところに、この問題の解決が大きく立ち遅れている理由があるといえるだろう。

 パイプト・ミュージックといういい方は、電気増幅というテクノロジーを使って、水道の蛇口をひねると水がパイプを通って出てくるように音楽が出てくるシステムのことを意味する。このことから、とうぜん彼らが最初から録音された音楽の再生を問題にしていることはたしかである。しかしながらフリスは、音楽の私的空間化にとって、音楽の録音という技術がひとつの因として作用していることにはあまり注目していないようにみえる。
 録音された音楽がなぜ私的空間を作り、さらに他者の空間を侵害するかは、それが私有化されたモノとなったからである。ある場において生(ライヴ)でパフォームされている音楽は、場というものによって成立しているがゆえに社会的な存在であるが、その録音はほんらいのコンテクストから離れ、音響のみがモノ化されたものである。フリードリヒ・キットラーのいい方を借りれば、音というものの波形やファイルという別のメディアへの変換によって起こった、19世紀末に端を発する現象と考えてもよいかもしれない。
 この音響はモノ化されているために簡単に持ち運べて、どこでも再生できるようになった。つまり個人のプロパティ(持ちもの)となってしまったのである。アップル社のiPodは音楽の個人をプロパティ化することの現在形のひとつである。音楽がイヤフォンから耳へという個人の空間にとどまるかぎりにおいては、なんの問題も生じない。だが、これが他者に聞こえる音響物となって他者の空間に入りこむなら、空間の侵害がそこに物理的に生じることは、とうぜん考えるまでもない。
 さらに、音楽による私的空間の形成の要因として、調性による和声音楽という一般的な音楽に共通する特質もおおいにかかわっていると思われる。録音技術が音響に可搬性をあたえたというだけでは、音楽による私的空間の形成とその侵害という問題についての説明がふじゅうぶんであるように思えるのだ。

 調性による和声音楽が可能としたのは、音楽の音響と情動の対応関係の確立である。長三和音が明るく、短三和音が暗いというような単純なレヴェルだけでなく、調性音楽はさまざまな情動のレパートリーを単純化して整理し、和声技法というかたちでの対応関係を築いていった。音楽社会学者のティア・デノーラは人びとがさまざまな録音音楽を自己の調整のために使っていることを、自己のテクノロジーとよんでいるが、それはそのような調性音楽のもつ情動作用の積極的な利用法である。料理をするときにはラテン音楽がいちばんという主婦や、落ち着くときにはシューベルトの変ト長調の即興曲を使う人や、朝の目覚めを快適にするためにある決められた音楽を使う人など、音楽とその用法になんの対応関係もみいだせないような個人的な音楽の使用のあり方がいまの時代には成立しているのである。ここでは他者との音楽の共有はまったく考えられておらず、ただ音楽が私的な空間の形成に使われているのみである。
 そのような私的空間としての他者の音楽音響に、人がそくざに嫌悪感をもつことがあるのは、それが情動言語として意味をもつからである。のんびりとした気分でいるときに、とつぜん明るく快活な音楽が侵入してきたら、それはたんなる音響的ノイズというだけでなく、その音響がさし示すところの情動を強制的にもたらす暴力となりうる。われわれの耳にあまり情動言語的な意味をもたらさない耳慣れない異国の音楽であるならば、音響的な違和感は生じさせても、情動的な嫌悪感はさほど生じさせないだろう。人は自分の空間において自分の気分の自由が奪われるがゆえに、外からの音楽の侵入に気分を害するのである。
 逆にいうなら、こういった調性音楽のもたらす作用が、公共の場で人びとを管理するために音楽を使おうとすること──つまり、パイプト・ミュージックのような試みを多く生じさせてきたと考えるべきなのである。すなわち、楽しい音楽は人びとを幸せにするというあの思想である。
 反対に、ある場に若者をあまり集まらせないようにするために、意図的にクラシック音楽をかけるという例もあるようだし、若者向けの場所に高齢者が好まないようなノイジーな音楽をかけて彼らを入りにくくすることも、完全に意図的とはいえないにせよ、じっさいには起こっている。ここでは音楽が、自己調整のテクノロジーを裏返しにした、排除のテクノロジーとして使われていることになる。こういった排除のテクノロジーとしての音楽は、ラジオ放送の普及以後、国家や民族という規模にまで拡大され、近年のバルカン紛争においては一種の戦争のような様相(註1)さえ呈するようになる。
 さらには、緊急事態にあって人びとを安全に避難誘導するためにはどのような音楽を使えばよいかということや、植物や動物に音楽を聴かせたりしてその生産効率を研究することについて説く人が現れたりする。ここから、大多数の人びとにどういった音楽を聴かせれば健康が促進されうるか、という研究まではあと一歩である。現行の音楽療法というものに、ある一定の人びとが根本的な不信感をいだくのは、こういった発想が見え隠れするからにちがいない。
 私としては、このような素朴な社会工学の道具として音楽が研究されることじたいに、恐れ以上のものを感じているのであるが、同時にこんなことをしてもけっして成果はあがらないであろうことも予測している。こういった発想は、さきほど指摘したモノ化した音楽と、それをたんなる音の刺激として受けとる人間という関係性を前提にしているが、これは欧米という限定された地域において、ある特定の時代に成立した音楽のイデオロギーにすぎないからである。したがって、ある文化圏におけるある時代の流行としてという限定つきであれば、ありうることかもしれないと、うんざりしながらもそれに同意してもよい。

 パイプダウンが問題にしているのは、公共空間におけるモノ化した音楽であるが、もうひとつの公共空間である公共放送における音楽の使用については、誰も問題視していないようにみえるのは不思議なことである。テレビを観ていて、音楽が入りこまない時間はいったい全体の何パーセントだろう? 意識してみると、驚くほど多量の音楽が使用されていることがわかるだろう。テレビ・ドラマに音楽が使われるのは演出の一部であり、ドラマの成立の根幹にかかわるものであると考えるなら、これは制作者の意図であるわけだから、その音楽の使用に辟易としているよりもいっそ観なければよいという考え方もなりたつかもしれない(日本のように、多くの人にとってテレビを観ることが習慣化している社会では、そのように片づけてよい問題とも思えないのだが)。
 それでは、ニュースのような場合ではどうだろうか? 9.11の事件の映像にたいして、イギリスのITN(Independent Television News。イギリスのテレビ番組制作会社のひとつ)がグノーの《審判官》という深刻な音楽を付けたことを、英国放送委員会が不適切と指摘したそうだが、たしかにこういった報道において、なんらかの音楽で情動の方向づけをすることには問題があるだろう。ITN側は、音楽の選択はこの事件の深刻さと葬送的気分にじゅうぶん配慮したものであると主張しているが、言葉もなくあの映像を観ている人にとっては、そのような情動教育的配慮はこころよいものではないだろう。
 わが国の放送においては、さまざまなお茶の間的映像にお茶の間的音楽が付加され、お茶の間的疑似公共空間が形成されることが日常的である。たとえば満開の桜を紹介する映像にどのような音楽を挿入するかは、完全に番組制作者にまかされている。上記の9.11のシーンに付けられた音楽は不適切と判断されたが、では何をもって適切と判断されるのだろうか?
 最終的には番組の制作者が決めることになるのだが、かといって彼/彼女がそれを勝手に決めてしまえるわけではない。担当者は、自分も含めて視聴者が適切と判断するであろう音楽を選ぶことになる。
 では、そもそも満開の桜とそれに対応する情動状態は誰が作るものなのか? 人びとが作るのだろうか? 社会が作るのだろうか? もちろん、それが人びとのある合意のうえになりたつことはたしかだが、逆に、ここには人びとのなかに内面化された自己規制とモラルが働いていることも考慮に入れなければならない。ミシェル・フーコーのいう管理と監視のパノプティコン(一望監視システム)のようなシステムが発動しているのである。かくしてお茶の間的映像にお茶の間的音楽が付けられ、人びとは自己規制的なお茶の間的情動を味わうことになる。
 パイプダウンのような団体も含め、多くの背景音楽にたいして問題を指摘している人びとも、放送における音楽の使用についてはなんの問題も提起していないことに、私は不思議さをおぼえる。私は放送における音楽の濫用についても、ある一定の法的規制が必要だと感じている。少なくとも、ドラマなどのように表現意図が明確である場合をのぞき、表現の主体が明確でない放送時間における音楽使用を制限することを求めるのは穏当な要求だと考えている。
 そして、私がもっと懸念するのは、じつは音楽の世界全体がこのような自己規制的お茶の間化してしまっているのではないかということなのである。

[註]
 セルビア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、クロアチアなどの共同体が、それぞれ自分たちの民謡をポップ化したもの(ターボ=フォークと呼ばれる)を放送で殺伐とぶつけあうような状態。

[参考文献]
 DeNora, Tia: Music in Everyday Life, Cambridge University Press, 2000.
 Frith, Simon: Music and Everyday Life. pp.92-101 in The Cultural Study of Music, Edited by Martin Clayton, Trevor Herbert and Richard Middleton, Routledge, 2003.
 フリードリヒ・キットラー(石光泰夫ほか訳):『グラモフォン・フィルム・タイプライター(上・下)』ちくま学芸文庫、2006

第8回 これ以上、音楽を作る必要があるのか?

 私は芸術大学の作曲科というところに行ったので、卒業するまで毎年課題作品を提出しなければならなかった。作曲にはげんでいるかどうかが、担当の先生とのあいさつがわりの会話だったし、友人とのあいだでも作曲が進んでいるかどうかがよく話題となった。
 にもかかわらず私は、世の中にこんなにたくさんの曲があるのに、私のようなものが新しい曲を書く意味はなんだろう、というじつに素朴な、しかしそれゆえにかえってタブーに近いような自問自答を、心のなかから追いはらうことができなかった。そもそも作曲科に行ったのは、作曲がやりたかったからだろう?──といわれればまあそのとおりだし、いままでにない独創的で新しい音楽を作ることができるとしたら、そこには意味があるだろうということも、もちろん理解してはいたのだが。
 別の話──。あるとき友人の美術家が教えている美術大学を訪ねたときのこと。裏の倉庫のようなところに、おびただしい数の絵が放置してあるのを目にした。学生が提出した作品や、制作したきり持ち帰らなかった作品だという。そのスペースはすでに限界に達しつつあるようだった。しかし、絵は毎年一定量増えてゆく。収まらなくなったらどうするのかとたずねると、適当に焼却処分するのだという。保管の限度を超えた絵は棄てられるわけである。美術品というものは究極的にはゴミなのだと思った。
 世界に画家といわれる人が何人いるのかわからないが、彼らが年間に生産する絵画の量はどれくらいなのだろう? このままわれわれの世界がずっと続くとするなら、そのうちそれは地球上を覆いつくすほどに増えてしまうのではないだろうか? 身動きがとれなくなるほどに絵でいっぱいになってしまった世界──。それは漫画的な妄想でしかないが、一面の真理もある。つまり、地球上には絵というものが不可逆的に増えつづけていくということである。
 音楽は絵のように場所をとらないので、このような状況はさほど想像しにくいが、ある時代からこっち、地球上の音楽は増えつづけ、どんどん蓄積されてきていることはたしかだ。楽譜であれ、CDのような音源であれ、ディジタル化されることによって、劣化・散逸の危険は飛躍的に減少した。音楽の保存状況にかんしていえば、たった100年前といえども石器時代に等しい。
 バッハの時代には、作品をすえながく残そうという意欲はあまり強くなかったようだ。新作された作品の楽譜でさえ、いちど演奏がすんだら、さほど注意深くはあつかわれなかった。そのようにして、バッハの作品は完全に忘れ去られていった。
 だが、ご存知のように100年ほどへたのち、彼の作品はふたたび注目の対象となりはじめる。いつの時代にもオタクな人々がいるようで、忘れ去られていたバッハの作品の楽譜を収集していたほんのひとにぎりの好事家の私的なコレクションから、まずは復興がはじまった。その後各地でバッハ作品の発掘がはじまる。音楽学という学問は、そういった収集、鑑定、整理のための方法論が必要となったことによって生まれた。こうした書誌学的な研究は、いまでも音楽学のなかの重要な部門といってよいだろう。
 このように多くの努力がはらわれてきたにもかかわらず、いまだにすべてのバッハ作品が、発見され整理されアーカイヴ化されているわけではない。最近でもヨーロッパのどこかで、知られざるバッハ作品が新発見? といったニュースが耳目を集めることがある。古い教会や貴族の館の物入れから埃にまみれた大作曲家の手稿を発見するのは、いまなお音楽史学者のみるインディー・ジョーンズ的夢のようである。
 こういった過去の作品の発掘と保存は、どうやらバッハ作品復活のころからはじまったようである。それはいうまでもなく、啓蒙思想や歴史意識の発生、さらにはヘーゲル的な──世の中が右肩上がりに進歩するという──世界観と深くかかわる現象である。またここには、西洋芸術音楽をその他の世界の音楽から切り離して特別あつかいするために、合理的な歴史的説明が必要とされたという事情もおおいにかかわっている。金字塔のごとくそびえる西洋芸術音楽が、みずからの成立についての説明を必要とするのは、京都あたりの老舗が室町時代あたりからの店の縁起をまことしやかに吹聴するのとさほど変わらない。
 もうひとつ、作曲というものをささえているのは、芸術家の創作というものにたいする無条件の肯定である。弟子にたいして作曲に専心しているかどうかを問う先生の意識には、芸術家が作品を作りだすことは、(たとえ生まれたものが駄作であろうと)貴重な営為である、という強い信念のようなものがある。この信念と右肩上がりの歴史観は、じつは同じ意識に根をもつものであり、「アジアの街の作曲科」という奇妙な状況にも深く浸透しているのである。
 いまでは少々状況が異なるかもしれないが、私の時代、作曲科の学生が書くべき音楽は、「現代音楽」という社会的にさほど認められていない領域にかぎられていた。ほとんど需要もなく、見返りも悲惨なほどに期待できないジャンルである。にもかかわらず、彼が創作を続ける意義は二つある。ひとつはこの西洋的モダニズムにおける創造というイデオロギーへの信仰にたいして帰依を示すこと。もうひとつは、そんな狭い市場のなかでのわずかなチャンスをものにするため、という現実的な理由である(作りつづけなければわずかなチャンスもめぐってはこない)。
 われわれ作曲の学徒が、人々から見向きもされない新しい音楽を作りだすそのいっぽうで、市場ではバロック音楽や、マーラーやブルックナーの交響曲といった、これまた見向きもされていなかった多くのレパートリーが再開発され、芸術音楽のアーカイヴに組みこまれ、ふくらんでゆく。しかし、データベースがいくら巨大になっても、とりだされ消費される量がそれほど増えるわけではない。消費されるデータ量がかぎられるのは、人々の感性が時代や社会の世界観に制限されるからである。とうぜんながら、時代の流行からもれたものは見捨てられたままに終わる。かりに音楽作品の博物館が作られ、優秀な館員の努力により、完璧なコレクションができあがったとしても、その大部分はとりだされることなく終わるだろう。時代がめぐり、ほんらいの文脈からそうとうに隔たった理解のされかたによって、ふたたびとりだされることになる可能性は──バッハのときのように──もしかしたらあるかもしれないにせよ。
 ここまで書きすすめてきたような西洋モダニズムにたいする醒めた視点は、いまでは多くの場面で散見されるようになった。音楽は進歩しなくてはならず、つねに新製品が開発されなくてはならないという、西洋芸術音楽にたいする18世紀以後のやや強迫的な意識は、どうも終わりはじめているようである。若者たちがポップスの新作にたいしてもつ期待感もだいぶ弱まってきているし、音楽産業は新しい企画よりも、いままでのレパートリーを再利用する消極的なビジネスに終始している。
 人によってはこれを音楽の衰退と考えるかもしれないが、西洋近代の音楽(や芸術)の大きな物語が凋落したことの現れと考えるほうが順当だろう。いま問われるべきなのは、たんなる技法上の可能性のなかでのラディカルさではなく、上記のような物語に頼れなくなった状況において、新しい音楽の姿を考えることである。
 作曲家の近藤譲は、音楽は多面的なものであり、いまだに多くの謎を秘めたものであるがゆえに、その謎への問いを立てるところにこそ作曲という行為の意義があると述べているが、これは西洋近代のイデオロギーのなかのある部分を逆手にとって、もう無用となりつつある作曲にあえて意義をみつけようとする試みに思える。前衛的な芸術は社会から孤立し、その自律性を貫徹することによって、社会にたいする鋭い刃となるという、晩年のアドルノの考えかたとも似ている。大きな物語に依存しない問題提起のありかたとしては、このような姿勢もありうるかもしれない。
 近藤のこのようないいかたは、美学者、A. C. ダントーのいう、それまでは表現の可能性の追求であった美術が、1960年代以後はみずからの存在意義を探すための哲学と化してしまったとする芸術終焉論とおおいに重なる。そう、いまの芸術は芸術自身の“自分探し”になってしまったのである。
 近藤自身はみずからの作品において、音と音の関係性を、それまで存在してきた音楽のエモーションやクリシェから解き放ち、異なるコンテクストでの音どうしが結びつく可能性を探究している。様式という大きな物語に依存することを拒否したその姿勢には、他にはない独自性がある。しかしながら、近藤の主張するように、作曲という行為によって音楽とはなにかを問うことは、ほんとうに可能なのだろうか?
 それが可能であるためには、作曲という行為が、みずからが属する音楽文化からのがれ、外部に立脚することが可能であることが前提であるように、私には思える。なぜなら作曲という行為がその属する文化のルールに埋没しているかぎり、その文化にたいして有効な問いを立てることは困難としか思えないからである。目は自分の目を見ることはできない。
 西洋音楽のその芸術性を成立させてきたのは、ローレンス・クレイマーのいうとおり、美学や評論などその音楽をめぐるディスクールという装置にほかならない。音楽の音響だけではその価値をささえることはできない。西洋音楽は評論されたり論究されたりすることによって、その芸術的価値を維持してきたのである。つまり、近藤のように問いを立てることは、ある意味では昔からおこなわれてきたことともいえる。むしろ一面では伝統的な思想に回収することもできるのである。
 作曲と哲学を同一視しようとする議論は、ヴァッケンローダーやシュレーゲルなどドイツロマン派の時代から多くみられるディスクールである。たとえば、E. T. A. ホフマンはベートーヴェンの第5交響曲論のなかで、音楽が未知の世界を示してくれる可能性について熱っぽく語っている。近藤の主張は、どこかこういったロマン派時代の議論と似かよったものを感じさせる。
 そもそも、作曲とはいくつかの異なる意味が歴史的に重層して、成立してきたものであるはずだ。バッハやハイドンがおこなった作曲とは、場や必要性におうじて音楽を現実化する「アレンジメント」という意味合いが強かった。啓蒙主義時代以後になると、その上に、それまではさほど重要なこととはされていなかった「個性」や「独自性」や「創造性」といった地層が積み重なることになる。しかし、すでに作曲という営為が始められた当初から、自然状態においてなりたつ音楽のありかたを超えて、人為的に音を構築するという、一種不自然な操作が当然視されていたことをみすごしてはならないだろう。いってみれば作曲とは、この人為的かつ不自然な操作のことなのであり、この方法があるときになりたち、その結果として生まれた音響が、人々に受け入れられるようになったために、その後作曲行為は加速化し、多くの曲が作られることになったのである。
 ここで大きな役割をはたしたのは、記譜法というものである。記譜法が作曲をうながしたといってもいい。逆にいえば、そもそも作曲は、記譜法が可能にした音楽の構想と具現化の可能性の範囲を超えることはできないのである。ヴィトゲンシュタインの「言いあらわせないことには口をつぐむしかない」という言葉になぞらえていうなら、記譜できない音楽は作曲できないし、書きあらわせない歌はうたえない。近藤のいう作曲という行為も、もちろんこの限定からのがれることはできまい。「問いを立てる」という哲学に似た作曲行為も、こういった西洋音楽のアート・ワールドのルールにしばられることになり、この限定を超えた謎はあらかじめ排除されていることになる。それゆえ近藤の試みはやはり、新しいテイストをもった音楽を開発するための方法論のひとつ、というあたりにとどまらざるをえないだろう。
 さらにこの議論をつきつめていくと、デリダのいわゆる「差延」という概念をもちだしたくなる。いくら問いを立てたとしても、それは芸術音楽というエクリチュールを反復することにならざるをえないだろう。近藤の音楽には、音の迷宮をさまようような独特のおもしろさがあるのだが、どこか閉じた空間のなかでのゲームのような感じがするのは、それがどこにもたどりつきそうもないデリダ的迷宮を音にリアライズしているからかもしれない(そしてそれはじゅうぶんにおもしろいものなのだが)。
 おそらく作曲という行為は、今後もまだ続いていくだろう。だが、少なくとも新製品の供給という機能はほぼ停止し、東浩紀のいうデータベース消費のひとつに吸いこまれていくだろう。最近のJポップのような音楽様式は、とうの昔から、実体から離れた差延的コピーの繰り返しになっているといえるかもしれない。作曲というものは、近藤の示唆する哲学的な問いというありかたも含めて、ダントーのいうように、王子と王女の波瀾万丈な冒険のはてにくる「それから二人はずっと幸せに暮らしましたとさ」以後の、退屈なホームドラマとしてしかなりたたないのかもしれない。

[参考文献]
テオドール・W. アドルノ(大久保健治訳)『美の理論』河出書房新社、1985
東浩紀『動物化するポストモダン』講談社、2001
近藤譲『〈音楽〉という謎』春秋社、2004
E. T. A. ホフマン(鈴木潔訳)「ベートーヴェン・第五交響曲」、前川道介編『ドイツ・ロマン派全集第9巻 無限への憧憬』所収、国書刊行会、1984
A. C. Danto, The Philosophical Disenfranchisement of Art, Columbia University Press, 1986.
Lawrence Kramer, Subjectivity Ramapant! Music, Hermeneutics, and History. in The Cultural Study of Music, edited by Martin Clayton et al., Routledge, 2004.

[著者プロフィール]

若尾 裕(わかお・ゆう)

即興演奏家(ピアニスト)、神戸大学大学院人間発達環境学研究科教授。音楽療法、即興演奏、サウンドスケープなどの領域を結びつけ、新しい音楽の可能性を探求している。最近、それは「ただ普通に生きるように楽に音楽することはできないのか?」という単純だが難しいテーマであることに気づく。「音と遊ぶ」フェスティバル主宰。主な著書に『音楽療法のための即興演奏ハンドブック』(音楽之友社)、『奏でることの力』(春秋社)、『音楽療法を考える』(音楽之友社)、CDにジョエル・レアンドルとの『千変万歌』(メゾスティクス)など。