◎連載
第7回 パイプダウン

反ヒューマニズム音楽論 (若尾裕)

 イギリスにパイプダウンという団体がある。この団体はパイプト・ミュージック(piped music。公共空間での録音音楽の再生のこと。いわゆるバックグラウンド・ミュージック)の規制をめざす市民団体である(興味のある人はhttp://www.pipedown.info/を参照されたい)。賛同者のなかで私の知る名前には、ピアニストのアルフレート・ブレンデルや指揮者のサイモン・ラトル、チェリストのジュリアン・ロイド・ウェッバーなどの名前がある。彼らは、現代社会においてもっとも不愉快な音を発するのは、削岩機でも車でも航空機でもなく、いまや音楽であることをさまざまな調査のデータをあげながら主張し、2000年にはこの団体の代表者のひとりである保守党議員、ロバート・キーが法案の提出を試みている。この法案は人びとが自分で選んで出かけるレストランやスポーツ・クラブなどでのBGMまで規制しようというわけではなく、公共交通や市民プールや病院などにかぎったもので、きわめて穏当な要望といってもよいもので、マスコミの注目を集めたものの、けっきょくはまだ法制化にはいたっていないようだ。
 ほかにもこのような指摘や主張をする人は多いにもかかわらず、なかなか実現できないのはなぜだろう。私にはそこに、いまのわれわれの音楽のもつ根本的な問題が潜んでいるようにも思えるのである。

 なぜこのような問題が生じてきたかについて、イギリスの音楽社会学者、サイモン・フリスは、音楽が私的な空間の形成にかかわるものになったためと指摘している。隣の家のパーティでかけられている音楽にいらだたされるのは、それが私的な領域に侵入してくるからである。だが、路上で生で奏でられたり歌われたりする音楽にたいして、いかにそれが技術的にひどいものであろうと、われわれがより寛容でありうるのは、それが社会的なできごとであり、私的空間への侵入の感覚がより薄いからだと彼はいう。この指摘はおおいに意味がある。
 『うるさい日本の私』(洋泉社、1996/新潮文庫、1999)を書いた中島義道氏が指摘する「騒音」は、音楽だけにかぎらないが、簡単にいえばこういった私的空間にたいしての、音楽も含めた他者の声の侵入の問題ととらえることができるだろう。したがって、これはたんなる騒音問題ではないのである。ところが、そのような音にかんしての意味論的な認識が薄いため、「騒音」が物理的なエネルギーとその知覚の問題として処理されてきているところに、この問題の解決が大きく立ち遅れている理由があるといえるだろう。

 パイプト・ミュージックといういい方は、電気増幅というテクノロジーを使って、水道の蛇口をひねると水がパイプを通って出てくるように音楽が出てくるシステムのことを意味する。このことから、とうぜん彼らが最初から録音された音楽の再生を問題にしていることはたしかである。しかしながらフリスは、音楽の私的空間化にとって、音楽の録音という技術がひとつの因として作用していることにはあまり注目していないようにみえる。
 録音された音楽がなぜ私的空間を作り、さらに他者の空間を侵害するかは、それが私有化されたモノとなったからである。ある場において生(ライヴ)でパフォームされている音楽は、場というものによって成立しているがゆえに社会的な存在であるが、その録音はほんらいのコンテクストから離れ、音響のみがモノ化されたものである。フリードリヒ・キットラーのいい方を借りれば、音というものの波形やファイルという別のメディアへの変換によって起こった、19世紀末に端を発する現象と考えてもよいかもしれない。
 この音響はモノ化されているために簡単に持ち運べて、どこでも再生できるようになった。つまり個人のプロパティ(持ちもの)となってしまったのである。アップル社のiPodは音楽の個人をプロパティ化することの現在形のひとつである。音楽がイヤフォンから耳へという個人の空間にとどまるかぎりにおいては、なんの問題も生じない。だが、これが他者に聞こえる音響物となって他者の空間に入りこむなら、空間の侵害がそこに物理的に生じることは、とうぜん考えるまでもない。
 さらに、音楽による私的空間の形成の要因として、調性による和声音楽という一般的な音楽に共通する特質もおおいにかかわっていると思われる。録音技術が音響に可搬性をあたえたというだけでは、音楽による私的空間の形成とその侵害という問題についての説明がふじゅうぶんであるように思えるのだ。

 調性による和声音楽が可能としたのは、音楽の音響と情動の対応関係の確立である。長三和音が明るく、短三和音が暗いというような単純なレヴェルだけでなく、調性音楽はさまざまな情動のレパートリーを単純化して整理し、和声技法というかたちでの対応関係を築いていった。音楽社会学者のティア・デノーラは人びとがさまざまな録音音楽を自己の調整のために使っていることを、自己のテクノロジーとよんでいるが、それはそのような調性音楽のもつ情動作用の積極的な利用法である。料理をするときにはラテン音楽がいちばんという主婦や、落ち着くときにはシューベルトの変ト長調の即興曲を使う人や、朝の目覚めを快適にするためにある決められた音楽を使う人など、音楽とその用法になんの対応関係もみいだせないような個人的な音楽の使用のあり方がいまの時代には成立しているのである。ここでは他者との音楽の共有はまったく考えられておらず、ただ音楽が私的な空間の形成に使われているのみである。
 そのような私的空間としての他者の音楽音響に、人がそくざに嫌悪感をもつことがあるのは、それが情動言語として意味をもつからである。のんびりとした気分でいるときに、とつぜん明るく快活な音楽が侵入してきたら、それはたんなる音響的ノイズというだけでなく、その音響がさし示すところの情動を強制的にもたらす暴力となりうる。われわれの耳にあまり情動言語的な意味をもたらさない耳慣れない異国の音楽であるならば、音響的な違和感は生じさせても、情動的な嫌悪感はさほど生じさせないだろう。人は自分の空間において自分の気分の自由が奪われるがゆえに、外からの音楽の侵入に気分を害するのである。
 逆にいうなら、こういった調性音楽のもたらす作用が、公共の場で人びとを管理するために音楽を使おうとすること──つまり、パイプト・ミュージックのような試みを多く生じさせてきたと考えるべきなのである。すなわち、楽しい音楽は人びとを幸せにするというあの思想である。
 反対に、ある場に若者をあまり集まらせないようにするために、意図的にクラシック音楽をかけるという例もあるようだし、若者向けの場所に高齢者が好まないようなノイジーな音楽をかけて彼らを入りにくくすることも、完全に意図的とはいえないにせよ、じっさいには起こっている。ここでは音楽が、自己調整のテクノロジーを裏返しにした、排除のテクノロジーとして使われていることになる。こういった排除のテクノロジーとしての音楽は、ラジオ放送の普及以後、国家や民族という規模にまで拡大され、近年のバルカン紛争においては一種の戦争のような様相(註1)さえ呈するようになる。
 さらには、緊急事態にあって人びとを安全に避難誘導するためにはどのような音楽を使えばよいかということや、植物や動物に音楽を聴かせたりしてその生産効率を研究することについて説く人が現れたりする。ここから、大多数の人びとにどういった音楽を聴かせれば健康が促進されうるか、という研究まではあと一歩である。現行の音楽療法というものに、ある一定の人びとが根本的な不信感をいだくのは、こういった発想が見え隠れするからにちがいない。
 私としては、このような素朴な社会工学の道具として音楽が研究されることじたいに、恐れ以上のものを感じているのであるが、同時にこんなことをしてもけっして成果はあがらないであろうことも予測している。こういった発想は、さきほど指摘したモノ化した音楽と、それをたんなる音の刺激として受けとる人間という関係性を前提にしているが、これは欧米という限定された地域において、ある特定の時代に成立した音楽のイデオロギーにすぎないからである。したがって、ある文化圏におけるある時代の流行としてという限定つきであれば、ありうることかもしれないと、うんざりしながらもそれに同意してもよい。

 パイプダウンが問題にしているのは、公共空間におけるモノ化した音楽であるが、もうひとつの公共空間である公共放送における音楽の使用については、誰も問題視していないようにみえるのは不思議なことである。テレビを観ていて、音楽が入りこまない時間はいったい全体の何パーセントだろう? 意識してみると、驚くほど多量の音楽が使用されていることがわかるだろう。テレビ・ドラマに音楽が使われるのは演出の一部であり、ドラマの成立の根幹にかかわるものであると考えるなら、これは制作者の意図であるわけだから、その音楽の使用に辟易としているよりもいっそ観なければよいという考え方もなりたつかもしれない(日本のように、多くの人にとってテレビを観ることが習慣化している社会では、そのように片づけてよい問題とも思えないのだが)。
 それでは、ニュースのような場合ではどうだろうか? 9.11の事件の映像にたいして、イギリスのITN(Independent Television News。イギリスのテレビ番組制作会社のひとつ)がグノーの《審判官》という深刻な音楽を付けたことを、英国放送委員会が不適切と指摘したそうだが、たしかにこういった報道において、なんらかの音楽で情動の方向づけをすることには問題があるだろう。ITN側は、音楽の選択はこの事件の深刻さと葬送的気分にじゅうぶん配慮したものであると主張しているが、言葉もなくあの映像を観ている人にとっては、そのような情動教育的配慮はこころよいものではないだろう。
 わが国の放送においては、さまざまなお茶の間的映像にお茶の間的音楽が付加され、お茶の間的疑似公共空間が形成されることが日常的である。たとえば満開の桜を紹介する映像にどのような音楽を挿入するかは、完全に番組制作者にまかされている。上記の9.11のシーンに付けられた音楽は不適切と判断されたが、では何をもって適切と判断されるのだろうか?
 最終的には番組の制作者が決めることになるのだが、かといって彼/彼女がそれを勝手に決めてしまえるわけではない。担当者は、自分も含めて視聴者が適切と判断するであろう音楽を選ぶことになる。
 では、そもそも満開の桜とそれに対応する情動状態は誰が作るものなのか? 人びとが作るのだろうか? 社会が作るのだろうか? もちろん、それが人びとのある合意のうえになりたつことはたしかだが、逆に、ここには人びとのなかに内面化された自己規制とモラルが働いていることも考慮に入れなければならない。ミシェル・フーコーのいう管理と監視のパノプティコン(一望監視システム)のようなシステムが発動しているのである。かくしてお茶の間的映像にお茶の間的音楽が付けられ、人びとは自己規制的なお茶の間的情動を味わうことになる。
 パイプダウンのような団体も含め、多くの背景音楽にたいして問題を指摘している人びとも、放送における音楽の使用についてはなんの問題も提起していないことに、私は不思議さをおぼえる。私は放送における音楽の濫用についても、ある一定の法的規制が必要だと感じている。少なくとも、ドラマなどのように表現意図が明確である場合をのぞき、表現の主体が明確でない放送時間における音楽使用を制限することを求めるのは穏当な要求だと考えている。
 そして、私がもっと懸念するのは、じつは音楽の世界全体がこのような自己規制的お茶の間化してしまっているのではないかということなのである。

[註]
 セルビア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、クロアチアなどの共同体が、それぞれ自分たちの民謡をポップ化したもの(ターボ=フォークと呼ばれる)を放送で殺伐とぶつけあうような状態。

[参考文献]
 DeNora, Tia: Music in Everyday Life, Cambridge University Press, 2000.
 Frith, Simon: Music and Everyday Life. pp.92-101 in The Cultural Study of Music, Edited by Martin Clayton, Trevor Herbert and Richard Middleton, Routledge, 2003.
 フリードリヒ・キットラー(石光泰夫ほか訳):『グラモフォン・フィルム・タイプライター(上・下)』ちくま学芸文庫、2006

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