◎連載
第6回 感情労働としての音楽

反ヒューマニズム音楽論 (若尾裕)

 こんにち、世界に作曲家とよばれる人が何人いるかはわからないが、そのなかで、自分が作りたい音楽だけを作っている人はごく一部だろう。ほとんどの作曲家はなんらかのかたちで注文を受けて音楽を作っている。注文のある仕事をひきうけないとしたら、教職など他の仕事をするか、ジョン・ケージのように清貧に暮らすしかない。
 この、注文による作曲も、ときたまのことなら、他の仕事のあいまの息抜きていどにとどまるかもしれないが、放送業界においてのように、大量の音楽を一時期に作りあげることになると、これはかなりたいへんなことだ。このような場では多くの場合、調性と三和音を使ったもの──つまり普通の音楽──が要求されるので、同じような音符を同じように並べなければならない仕事がえんえんと続く。必死に音符やメロディを絞り出す努力のすえ、最後にはもう1音符たりとも頭から出てこなくなったりする。
 しかしながら、外部のいかなる制約からも脱し、自律して自分の作品を創りあげるという芸術家のイメージはせいぜい19世紀ぐらいにできたもので、作曲家という職業が出現していらい、注文によらない音楽のほうがずっと少ないのではないだろうか。
 歌手やバンドの名前が少し売れはじめた時期も、事情はやや似ている。ようやく知られるようになった1曲を、連日どこへ行っても歌わされることになるのだが、これもなかなかたいへんなストレスだ。なんらかのかたちで外からのオーダーにしたがって音楽をしている人たちには、多少の差はあれ、同じようなストレスがあり、その解消に多大なエネルギーを費やしているのではないだろうか。あふれるほどの情熱をかたむけて始めた音楽だったはずなのに、限度を超えてそれを強いられるところから、すべてのストレスは生ずる。

 アーリー・ホックシールドという社会学者は、『管理される心』(石川准・室伏亜希訳、世界思想社、2000年)のなかで、感情労働という言葉を使って、現代の労働のある一側面について論述している。彼女が主にケースとしてとりあげたのは、フライトアテンダントの仕事ぶりだ。彼/彼女らは、どのような客にもにこやかな笑顔で接するよう訓練される。彼/彼女らのそのときの気分とはかかわりなく、少なくとも仕事中はつねにそうあらなくてはならない。やがて、もともと表面的な演技であったものが、ほんとうの自分の気分と区別がつかなくなったりするが(これを深層演技という)、これまたきついことなのである。以前、映画のヒットで話題になり、連日マスコミから同じような質問をされ、あるときついに不機嫌そうな表情で「別に」とぼそっと言ったきり黙りこんで話題になった女優がいたが、それは彼女の感情労働が限度を超えてしまったからだろう。その後さんざん非難を浴び、涙の謝罪会見までしなくてはならないはめにまでおちいったのは、彼女が女優やタレントという感情労働者が守るべき就業規定を破ったからにほかならない。
 彼/彼女らの仕事は人のうらやむような好条件であることも多いが、その感情は高い給料とひきかえに商品となり、売り買いされていることになるのである。昔は労働といえばひたすら肉体労働を意味し、マルクスが問題にしたのはたとえば炭坑で寝る時間もろくにとれないような状態で働かされ、体の健康が蝕まれるような状況についてであった。だが現代の労働はもっと複雑で、このような感情労働のために、こころの健康が蝕まれることも憂慮すべき事態になりはじめているのである。
 バッハが教会から注文をうけ、「またオラトリオかよ、たいがいにしろよ、まったくもう」とか、ぶつくさ言いながら書いていたかどうかはわからないし、映画『アマデウス』に描かれたように、モーツァルトが他の仕事より高いギャラでひきうけた《レクイエム》の仕事を納期に間に合わせようと無理をかさねるうちに死んでしまったという話も、ほんとうかどうかわからないにせよ、冒頭にあげた音楽家の例は、どうみてもりっぱな感情労働に属し、しかもフライトアテンダント以上に深刻でさえあるように思える。
 音楽の仕事における感情労働としての側面が強くなっていったのは、もちろん音楽と感情の結びつきが強くなっていくにしたがってのことであろう。19世紀あたりの作曲家がときどきバーンアウトのような症状を呈したのは、「別に」とつぶやいた女優と同様のことなのかもしれない。

 彼ら作曲家への注文にはさまざまなものがあるのだろうが、守らなければならなかったことは、注文主の満足であるのは今も昔も変わらない。モーツァルトやベートーヴェンの作品には、パトロンの侯爵様やその家族の演奏レヴェルに合わせて、パートを書いたりしたものがいくつもある。お嬢様がどう練習しても弾けないようなパートを書いたり、彼らの社交の場にふさわしくないような音楽を書いたりすると、クレームがついたり、次から仕事がこなくなる。このあたり、現代の業界作曲家も様子はさほど変わらない。
 ではその注文主の意向とはなんだろう。昔ならお金をだすのが特定の個人なので、その意向はまだはっきりと注文主個人に帰すことができるようにも思えるが、その貴族のお金はどこからくるのか、貴族は周囲からなにを期待されていたのか、貴族社会ではいかに振る舞うべきか、など、さまざまに無視できない条件がかかわっていることを勘案すると、いかに身分の高い貴族であろうと、それなりに社会に制限されているところは小さくはないことが想像できる。
 では現代ではどうか。前述のホックシールドによれば、それは資本主義社会からの要求であり、その要求はいい換えれば父権的になりたったファミリーの道徳から出発していて、さらに屈曲して、男性中心的な社会のなかでの女性の抑圧という問題にまでたどり着く(フライトアテンダントにかぎらず、感情労働の担い手の多くは女性なのである)。最後のフェミニズム論議については、ホックシールドが拓いた感情社会学のなかでも、賛否両論あるところのようだ。だが、音楽の情動(感情)がどのようになりたってきたかを考えるためには、有効性のある指摘のように私には思える。ファミリーからコミュニティ、そして社会へという構造のなかで感情の社会的管理がなりたつのは、フライトアテンダントの笑顔だけではない。じつは音楽の情動もそうなのである。
 たとえばポピュラー音楽の情動は、それを買う消費者の意向を反映していると通常考えられているが、それは商品としての音楽とその消費という単純な図式のなかでのことである。その消費者の意向はどこから来ているのかについては、あまり議論されていない。あたかもポピュラー音楽は消費者の意向投票によって決まっているかのように論じられることが多いのだが、じつは消費者が反映させたい情動は、社会という管理のフィルターを通過してできあがったものなのである。
 今となっては、わずかの幸福な例外をのぞけば、音楽の情動は資本主義による「世界音楽」という都合のよい管理機構の傘下に管理されており、人びとはそれを買うことによって自分のものにするのであり、さらにその情動が消費者によって濾過され純化され、次に生産される音楽にフィードバックされる。この濾過-フィードバックによって情動はどんどん画一化され、それをリニューアルした音楽の再生産がループのように続く。この過程では、音楽の情動はすでにフライトアテンダントの笑顔のように精選され管理されているので、まちがっても晩年のマーラーのような不健康な情動は混じりこむ隙はなく、咀嚼しやすいファミレスのメニューのように整理され、売られているのである。
 この先には、まださまざまな議論があるだろう。たとえば、ドゥルーズ=ガタリは『アンチ・オイディプス』で、じつは人間のこころが資本主義によってコントロールされているものであり、それはオイディプス・コンプレックスという、フロイトが画定したファミリーを基底とする人のこころのなりたち方に逆に規定されているという指摘とホックシールドの議論はとうぜん重なっている。

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