◎連載
第4回 ノイズ、ブルース、生政治

反ヒューマニズム音楽論 (若尾裕)

 人類史のなかで、音楽がどのように始まったかは定かではないが、その始まりには混然たるノイズから明瞭な差異のある音への志向があったと考えるのは自然だろう。一定のピッチや拍の発見は、いずれもその音を自然界にあるノイズから差異化するために実現されたことだ。なぜなら、どちらも自然界には存在しないものだから。音響がこのように差異化されていなければ、ふたたび自然界のノイズに埋没することになるのみだ。  歌ったり、リズムを打ったりすれば、自然界のノイズからは弁別できうるサウンドが立ちあがる。ドゥルーズ=ガタリの言葉を借りれば、これがリトルネロであり、領土化の第一歩ということになる(註)
 音楽はノイズから立ちあがり、なんらかの発展をしていった、というのがここでの議論の前提である。いまではノイズ・ミュージックなどが盛んで、ノイズにもじゅうぶんな発言権が認められるようになってきているが、それを理解するには、それ以前に無反省に進められてきたノイズの追放という思想を振り返る必要がある。
 音楽の始まりが、ノイズから弁別されうる音の探求だとするなら、次にはその音からノイズ性をできるだけ消去し、さらにピュアな信号となることをめざすことになる。かくして楽器は、明瞭なピッチを生みだせるよう、あるいはその音の信号成分をできるだけ明瞭にするよう、つまりノイズ成分をできるだけ抑えるように改良されてゆく。
 しかしながら、じっさいに歌ったりリズムを打ったりしてみればわかるが、そこにはどうしてもノイズの混入が避けられない。息のように、発声行為に不可避的に混入する音だったり、ものを叩いたときに生じる望まれない不規則倍音だったり、めざした音と出た音との音程やタイミングの誤差だったりとさまざまである。
 近代の西洋音楽文明では、ノイズの排除のために科学がふんだんに動員されることになる。そして、正確なチューニングのために周波数測定をしたり、基音と整数倍音のみを取り出して不規則倍音をミニマムにするためのさまざまな工夫が進んでゆく。それはやがて音楽の構成システムにまでおよび、倍音を基礎とする三和音の理論などにも一種の科学性のようなものが導入される。そのもっともはなばなしい成果は十二平均律の発明だろう。
 物理学的法則である倍音の原理は、紀元前の時代から理解されていたことなのだが、音階を標準化することはたいへんな難事業だった。どこかを調整すると別のどこかにゆがみが生じる。さまざまな調律方法が開発され消えていった調律の歴史に決定的な終止符を打ったのは平均律の登場だった。だが、その実現のためには、音階というものから神秘性や情緒性をはぎ取り対象化する啓蒙思想の進展と、2の12乗根をもとめる計算を可能にする数学の進歩が必要だったのであり、それには17、18世紀まで待つ必要があった。
 こういった西洋音楽の姿勢に対し、非西洋世界では、楽音とノイズの関係を宿命のごとく受け入れ、一種の共生関係なりたたせる道を求めた。西洋のようなテクノロジーをもたなければ、とうぜんこの道以外は残されていない。歌えば息の音はするし、音程もはずれる。どんなものからも非整数倍音は生じるし、どんなに正確に打っても拍は不均一になる。このようなノイズ要素との共存は、音楽というものを、あえていえば一種平和なものにしている。うまいへたは多少あっても、誰でもが参加可能だし、気軽に楽しむことができる。これは、西洋音楽が捨ててしまった潜在性のひとつである。今となっては、これを取り返すことはけっこうな難題だ。
 回避しようにもあまりに近くに来てしまったので、ここらで、上記の論の補足として、ロラン・バルトの「声のきめ」という文章に寄り道する。バルトはパンゼラとフィッシャー=ディースカウの声を比較し、パンゼラの声にある口腔や歯や鼻など、ようするに発声器官が発するノイズが、フィッシャー=ディースカウの声では排除されていることを指摘し、パンゼラの声のノイズ性の意味を論じ、フィッシャー=ディースカウの歌は平面的でつまらないと論じている。歌を歌うということは、テクストとしての歌と、実際の音響としての歌の両面を実現することであるが、その両者を切り分け、ノイズの側を徹底的に排除するのが、フィッシャー=ディースカウに代表される近代以後の音楽と演奏に共有される方向性なのである。
 このようなノイズの排除によって獲得されたのは、一種の合理性と普遍性であるだろう。ガムランのアンサンブルは楽器のセットごとに調律が異なるので、隣村のアンサンブルと合同演奏をしたいと思っても無理な話だ。西洋音楽文化においては、ホルン奏者がひとり風邪をひいても、その日予定のあいている代わりの奏者をひとり手配すればことたりる。どの国のどのメーカーでも、ホルンの調律は同じだからだ。音の高さと時間を縦軸・横軸で表したグラフのような五線記譜法を使えば、読み取り方さえ学べば、音楽の外様をまあだいたいはつかめるようになる。別の場所に譜面を持っていっても再現できる。このような合理性ゆえに、西洋音楽とその考え方は世界中に普及することになった。これがノイズの排除という生政治の成果の一端である。
 ノイズの排除は楽音からのノイズの排除のみならず、音楽の構造や微妙な口承的要素の合理化にまでおよんでいった。装飾音などにみられるパフォーマンス・プラクティス(演奏習慣)は標準化され、記譜によって明示されるものとなり、譜面化できない即興性も排除されていった。こういったことをもう少し概念化していうなら、それは音楽からの身体性の排除ということになるだろうか。いや、そもそもこの生政治は、音楽という行為のなかでの生の管理なのである。啓蒙思想の普及と並行して、ある時代以後、音楽から祝祭の狂気や暗黒や静寂の危険が消えてゆく。それに代わったものが絶対音楽や音楽の自律性や芸術至上主義といったヴァーチャルな場である。そして宇宙にまで解放された自由さとその代価としての一種の危険さを秘めていた音楽は、芸術という安全なヴァーチャルなリングのなかでの闘いへと移行する。音楽からは危険さは失われ、芸術という安全なゲームが始まる。音楽は生政治の管理下におかれ、武装は解かれたのだ。
 なぜこのようなことが起きたかは、これからの検討課題であるのだが、いまのところフーコーによる近代の生の管理の議論を借り、それが音楽にまでおよんだという説明にとどまるほかない。だがこれは、少なくともおもしろみに欠ける結論だろう。音楽に特権的な地位をあたえる時代は終わったものの、かといって社会文化に従属させるだけでは、少なくとも音楽そのものをよりおもしろくすることにはつながりそうにない。
 ブルースという音楽は、こういったノイズの排除について考えるときに、ある有効な視点を提供してくれると思う。レッドベリーなどの初期のブルースからもっとのちの12小節パターンへの整理の過程は、もちろん上記の合理化によるノイズ排除の原則に従うものだ。生政治の対象となったことはブルースも例外ではない。しかしながら、ブルースという音楽のハイブリッド性は、そんなにヤワなものではなかった。ブルースの音階とそのハーモニーのあいだのずれは、いまでも合理化をはばんでいる。たとえば長3和音上にのっかる短3度の音程は、♭10thとも♯9thとも説明されるが、その不合理さを回収しきれるものではない。
 西洋近代の発想による理論化という生政治的管理をくぐり抜けたブルースは、西洋的な音楽語法としては強度を異例に保ちつづける。得体のしれないブルース・シンガーという人たちから始まって、バップ・ミュージシャンがジャズ語法に、プレスリーが軽薄な恋歌に、ビートルズやストーンズが意味ありげなロックに、ジェームズ・ブラウンがノリだけのファンクに、さらにR & Bに……いったいどれだけの音楽がここから生成してきたことだろう?
 これははからずも、西洋音楽のドレミとドミソのシステムに、異種の音楽をむりやり詰め合わせた結果生じた矛盾ゆえに生まれた力である。ブルースはこの力によって、西洋近代音楽の生政治からかろうじて逃走しえた数少ない例外のひとつかもしれない。もちろん、ブルースに特権的な地位をあたえたところで、問題は解決しない。だが、アーバン・ブルースのあとにわれわれに残されたポスト・ブルースとは?──と、ちょっと考えてみるのも悪くはないだろう。

註 ドゥルーズとガタリは、暗闇で子どもが歌をくちずさみはじめる話から、混沌とした世界に自分の落ち着く領域を確保しようする行為を領土化ということばで概念化し、それを芸術表現行為の始まりと論じる。この領土化においてなんらかの反復により形が生じることをリトルネロとよぶ。やがてそれは運動性をもとめてカオスに向かって開かれる。これが脱領土化である。芸術表現行為はこのような領土化と脱領土化の繰り返しにより、生成変化してゆく運動とドゥルーズとガタリはとらえる。このような芸術のとらえ方はアヴァンギャルドな芸術の意義を大きく認めるものなので、多くの現代芸術家たちから支持されている。

[参考文献]
 菊地成孔、大谷能生:『東京大学のアルバート・アイラー──東大ジャズ講義録・キーワード編』、メディア総合研究所、2006
 クロード・レヴィ=ストロース:『生のものと火を通したもの』、みすず書房、2006
 ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ:『千のプラトー』、河出書房新社、1994
 ロラン・バルト『第三の意味』、みすず書房、1998

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