◎連載
【2】アルタン《レッド・クロウ》1990

ケルト音楽名盤再訪 (おおしまゆたか)

アルタン《レッド・クロウ》

 《レッド・クロウ》は衝撃でした。当時国内盤を出していたレコード会社の担当者から一足先に聞いてみてくれと送られてきたCDをかけはじめたとたん、椅子からとびあがりました。とてもじっとすわっていられなかったのです。

 それまで聞いたこともない新鮮で、ダイナミックで、美しい音楽に、ただただ有頂天になりました。これは凄い、凄いよ、やったね、と最後まで聞きおわらないうちに担当者に電話をかけていました。新しい時代が始まった予感がありました。こういうものが出てきたのは、風が変わっている。いや、新しい風が吹きはじめたのだ。これはプランクシティでもボシィ・バンドでもない。チーフテンズとは対極だ。なにかまったく別のもの、オルタナ・アイリッシュ・ミュージックとでもいいたいもの。

 およそ表現をなりわいとする者にとって、独自の「声」をつかむことは、まず何より大切なことではあります。やや極端に言えば、独自の声をつかめるまでは、表現者は「コピー」の域を脱することができません。

 《レッド・クロウ》でアルタンは自分たちの声を掴みとったのです。その声で奏でられるみずみずしく、溌剌として躍動する音楽に、筆者ははじきとばされたのでした。アルバムの出来栄えということでは《アイランド・エンジェル》(1993)を頂点とし、《ハーヴェスト・ストーム》(1992)がこれに続くという意見に、筆者も同意します。しかし、声を掴んだ手応えに昂揚するバンドの反応は、《レッド・クロウ》に独得の輝きを与えています。例えていえば、わが国の代表チームがサッカー・ワールド・カップ本大会への初出場を決めた「ジョホールバル」の試合が持つ輝きに似ています。

 アルタンの中心メンバーであるフランキィ・ケネディ& マレード・ニ・ムィニーは、1983年に《CEOL ADUAIDH(北の調べ)》を出してデビューしています。これは、ある人が「ラブラブな音楽」と評した通り、二人のパーソナルな音楽です。ジャケットの写真に象徴されるごとく、ここでは二人はおたがいに向けて演奏しています。だからこそそこに聞かれる音楽は新鮮であったわけですが、バンドとして外に向けて放たれたものではありません。

 4年後のセカンド《アルタン》では姿勢は百八十度変わっています。ジャケットの写真で二人は外を向いています。ここではドニゴールの共同体の外のリスナーに音楽が放出されています。デビュー作がいわば「青春の記念」であったのに対し、セカンドははっきりと自分たちの伝統音楽演奏を世に問うていました。

 デビュー作ではうたはすべてアイルランド語の無伴奏でした。セカンドでは伴奏を付け、アイルランド語と英語の詞を交互にうたうこともしています。このやり方はアイルランドの伝統にあるもので、「マカロニック」と呼ばれます。

 そして何よりもドーナル・ラニィをプロデューサーに迎えたこと。プロデューサーとしてのかれの手法はミュージシャンの資質にできるかぎり添うものである一方、全体のベクトルとしては伝統音楽を伝統とは縁遠い現代人の耳にいかに魅力的に聞かせるかに腐心します。その点ではパディ・モローニと同じです。違うのはパディが音色の多彩さに傾くのに対し、ドーナルは楽曲にそなわるダイナミズムを引き立たせるところです。

 ドーナルは例によってすぐれた手腕を発揮して、このアルバムを「外部」にとっても魅力的なものにしています。が、あくまでもフランキィとマレードの二人のアルバムとしてです。すでにメンバーはそろっているものの、まだ名づけられていないバンドの気配はごく薄い。

 2年後の《ホース・ウィズ・ア・ハート》で、バンドとしてアルタンの名が掲げられました。これまでの4人のメンバーにポール・オショーネシィが加わり、ツイン・フィドルになります。プロデュースはフィル・カニンガム。スコットランドきってのピアノ・アコーディオンの名手。アコーディオンを持たせると常軌を逸する人ですが、プロデューサー、共演者としては出しゃばらず、ドーナル以上にミュージシャンの資質を尊重するタイプです。

 《ホース・ウィズ・ア・ハート》は良いアルバムではありますが、アルタンの存在を明確に印象づけるまでにはいきませんでした。1980年代後半、アイリッシュ・ミュージックはようやく前半の低迷から脱出しようとしていました。アルタンのような新人が現れはじめ、ベテランたちも再び動きだしています。国外では「ワールド・ミュージック」ブームによって解き放たれた世界音楽が沸騰を続けていました。

 そしてもう一つ。1989年から1990年にかけて、新譜のリリースがLPからCDへと一斉に切り替わりました。ある日を境に新譜がすべてCDになった。実際にはそんなことがあったはずはありませんが、そういう印象が残っています。アルタンにあっても《ホース・ウィズ・ア・ハート》は当初LPとしてリリースされた最後のアルバムです。

 音楽界は騒然としていました。その中で注目されるには、良いだけではまだ足りません。この時期にあっては、むしろ1983年のデビュー作の鮮烈な印象が尾を引いていました。《レッド・クロウ》はそこに登場し、アルタンの音楽の独自性を強烈にうたいあげて、バンドとしてのアルタンの存在をあざやかに浮きあがらせたのでした。

 バンドとしての出発に際してフィドルを加えたのは思いきった判断でした。マレード一人ではデュオとしてはともかくバンド・アンサンブルの中ではいささか弱い、ありていに言えば音量が不足。それを補強すると同時に、ドニゴールの楽器としてはまず何よりもフィドルであることを前面に出すことにもなりました。

 フィドルが複数になる形はスコットランドからシェトランド、さらにはスカンディナヴィアに多いものです。ドニゴールはアイルランド北端に位置し、南の国内よりも、文化的にも社会的にもスコットランドとより強く深く結びついています。むしろ北海文化圏の南端がアイルランド島北部に食いこんでいる、と見たほうがよい。

 おもしろいことに、多数重なってもフィドルの響きは太くなりません。ノルウェイの数十本のフィドルの重なりでも、その響きはどこまでもさわやかです。アルタンのアンサンブルも太くはなりません。この点が、同じユニゾンでもボシィ・バンドとは違うところです。ボシィ・バンドにあってユニゾンするのはフィドル、パイプ、フルートという、音色も音域も異なる楽器です。ユニゾンの「幅」が広いのです。太い筆の一筆描き。ボシィ・バンドのアンサンブルの時として暴走する野性はそこから生まれています。

 ドニゴールにはジグ、リール、ホーンパイプなどとならんで、ハイランズ、ジャーマンズなど、独得の楽曲群があります。こうした楽曲はそれまで注目されたことはありませんでした。いや、その存在さえ、ドニゴール以外ではほとんど知られていませんでした。ボシィ・バンドもクラナドもドニゴールが音楽的故郷ですが、どちらもこうした独得のレパートリィを演奏することはありませんでした。

 アルタンのおかげでわれわれのみならず、ドニゴール以外のアイルランド伝統音楽家たちも、あらためてドニゴール特有のレパートリィのおもしろさに目覚めます。今では、こうした楽曲群はコンテストでの定番の演奏曲目にまでなっているそうです。

 初めて聞く、エキゾティックなチューンの、細くて濃い線によるユニゾン。暴走するおそれのない、均整のとれた音楽。アルタンの基本形はこうまとめられますが、レパートリィはマレード&フランキィのデビュー作からすでに出ていますし、バンドの形にしても《ホース》で基本はできています。では《レッド・クロウ》はどこが違うのか。

 《ホース》までは楽器はそれぞれ独立して聞こえます。《ホース》では2本のフィドルは左右に分かれ、フルートが中央に位置しています。ギターとブズーキが全体を両側からはさみこむ。

 《レッド・クロウ》ではフィドルが中央に並びます。フルートはそのすぐ脇についています。フロントでユニゾンを奏でる楽器がぐっと寄っているのです。独立して聞こえていた楽器同士を分けていた隙間がなくなりました。楽器の響きが重なり、個々の楽器が同じメロディを奏でるというよりも、ひとつのメロディを複数の楽器が分かち合う、真の意味での「合奏」になっています。それまでは一本ずつの線が別々に立っていたのが、ここでは集中して並んでいます。アルタン独自の声とは、この細く濃い線の集中だったのです。

 アルタン自身の演奏やレパートリィが変わったのではありません。変わったのは録音としてどう聴いてもらうかのヴィジョンです。実際の変化はごくわずかです。離れていた楽器がくっついた、それだけの違いで、聴き手が受けとる音楽はがらりと変わってしまったのでした。蛹が蝶になるような、恒星が超新星になるような、モノクロがフル・カラーになるような、つまりおよそ次元が異なる音楽に、それはなっていたのでした。

 ここは録音というメディアのおもしろさであり、また怖さです。ライヴでは良くも悪しくも、ミュージシャンの生地が否応なく現われます。録音ではごく一部の組立てを変えただけで、音楽の本質がまったく位相を変えるのです。

 もっとも《レッド・クロウ》の組み立てはライヴでの演奏により近いものだったはずです。当時のライヴを見ることはできませんでしたが、来日時のステージと基本は変わっていないでしょう。この形によってユニゾン・パワーが全開された時、アルタンの録音は無敵になったのでした。以後、最新作にいたるまで、少くともインストゥルメンタルの録音に関するかぎり、組立ては変わっていません。

 それだけではありません。この組立ては、ことユニゾンの扱いに関するかぎり、その後のアイリッシュ・ミュージックの録音の標準となってゆきます。その先には『リバーダンス』のあの集団によるユニゾン・タップがある、というのは我田引水でありましょう。ですが、アルタンによってユニゾンの持つ力を録音の上で解放する手法が開発された結果、今度はユニゾンの力そのものがあらためて注目されたことは、感じとれます。ダーヴィッシュをはじめ後に続くバンドは、ユニゾンをいかに効果的に際立たせるかをモチーフとしてアンサンブルを組み立てるようになります。

 《レッド・クロウ》のプロデューサーはP・J・カーティス。次の《ハーヴェスト・ストーム》も同じです。前任者とちがって、カーティスの本業がミュージシャンではないことも、この組立ての変化には、ひょっとすると関わっていたかもしれません。《レッド・クロウ》と《ハーヴェスト・ストーム》で、 1990年と1992年の NAIRD (North American Independent Record Distributors) の最優秀レコード・プロデューサー賞を受賞しました。

 《ハーヴェスト・ストーム》ではキアラン・トゥーリッシュが入ってトリプル・フィドルとなります。ケイリ・バンドを除いて、こんな編成はアイリッシュ・ミュージックでは空前で、おそらく絶後でしょう。そしてこんなスピードで演奏するケイリ・バンドはありません。《アイランド・エンジェル》でポール・オショーネシィが脱けると、ダーモット・バーンのアコーディオンとニール・マーティンのチェロを加えます。ユニゾン担当楽器の一層の重層化でした。

 《ハーヴェスト・ストーム》はトリプル・フィドルの威力十分で、これはもう頂点だと確信したものでした。こんなものを作ってしまって、これからどうするのだろう。そんなことさえ、思うほどでした。この時にはフランキィの病が公になってもいました。ですから《アイランド・エンジェル》が現われたときには、心底脱帽したものです。アイルランドのどんなバンドでも、これをしのぐものはおろか、肩をならべられるものも作れまい。アルタンこそは No. 1。

 そしてアルタンの「三段跳び」に引っぱられるように、アイリッシュ・ミュージックは爆発しました。アルタンの同世代、かれらよりさらに若い世代、そしてベテランが、まるで「せーの」でタイミングを合わせたように、いっせいに活発に活動しはじめたのです。シャロン・シャノンのデビュー作が 1991年。ダーヴィッシュとキーラとニーヴ・パースンズのデビュー作が1992年。ディアンタのデビューが1993年。1992年にはまた例えばマット・モロイ、ショーン・キーン、リアム・オ・フリンの3人が《THE FIRE AFLAME》を出しています。そしてアンディ・アーヴァイン&デイヴィ・スピラーンの《EAST WIND》も1992年です。

 アルタンは時代の転換点に現われて、状況を一変させました。もとよりアルタンがすべて独力でなしとげたことではありません。ですが、アルタンが強力無比の触媒兼推進剤になったことは確かです。アイリッシュ・ミュージックの現代化がプランクシティ~ボシィ・バンドによって始まったとすれば、20年後それを一つの完成形に昇華したのがアルタンでした。あれからすでに20年。アルタンの「次」ははたしてどこかに現われているのでしょうか。

Artes * Web連載 TOP | アルテスパブリッシング TOP