◎連載
第12回 日本戦後音楽史──汎アジア主義というエキゾティズム

音楽・知のメモリア (小鍛冶邦隆)

 伊福部昭(1914~2006)の《日本狂詩曲》が作曲されたのは1935年であり、同年パリのチェレプニン賞を受賞、翌年にボストン初演された。フランス・ロシア近代音楽を中心としたスコアのみを情報源とし、そこからオーケストラの機能と響きを想像して作曲されたこの作品は、戦前の日本における管弦楽作品を代表する音楽のひとつであり、また戦後1953年に刊行された『管絃楽法』(註1)とともに、日本人作曲家が近代管弦楽というテクノロジーをいかに理解し、マニュアル化したかを示している。

◎オーケストレーションという作曲の技法

 《日本狂詩曲》を聴いてみよう。そこでは主題や調的関係による形式といった、統辞的意味としての音楽構造がほぼ不在であり、一定パターンのフレーズの反復が、オーケストレーションのテクステュアの変化と対照性のみで、音楽的実質を生みだしているといってよい。欧米人には、素材の民族的特性よりも、音楽的構造にかんする異質性において、むしろエキゾティックに捉えられたと思われる。
 さらに創作同様に伊福部の代表的な業績である『管絃楽法』は、リムスキー=コルサコフ以来の、ヴィドール、フォーサイスなど(とりわけ前者)による近代管弦楽法の著作を下敷きにした管弦楽法概論として、きわめて実用的なもので、こんにちにいたるまで戦後日本の作曲家に多大な影響をあたえてきた。音楽的創意はオーケストラのテクノロジーじたいから触発をうけ、ヨーロッパの伝統音楽にみられる音楽的発想と演奏実践としての歴史的管弦楽技法との矛盾に満ちた経緯をいっさい清算したところから創作を開始した時点で、あたかもバロック的な「機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)」であるかのように、管弦楽は作曲家に予定調和の恩恵をほどこすのである(註2)

◎屹立する響きと馴致

 松村禎三(1929~2007)の音楽は、師・伊福部の創作理念を受けつぎながら、やがて中国からインドにまでいたるアジア的な発想という、(抽象的な視点ゆえに)とらえどころがないほどの広がりをもち、工芸的ともいえる精緻な作曲法と管弦楽法にもとづく、すぐれて自省的な創作として、戦後日本を代表するものといえる。
 1960年代の現代音楽シーンにおける創造的エネルギーの極点と思える《交響曲》(1965)や《管弦楽のための前奏曲》(1968)に聴かれる、ヨーロッパ的な倍音構造とは異なる、あたかも楽音とノイズと臨界域で生ずる独自の音響像(註3)からは、たしかに松村に多くの影響をあたえたストラヴィンスキー《春の祭典》(1913)における、ヨーロッパ音楽の異化としての先鋭的な構造化と共通するものもうかがわれる。
 《管弦楽のための前奏曲》に聴かれる日本伝統音楽ともつうじる音程の揺れや音律、音価の扱いを模倣する管楽器の扱いは、やがてストラヴィンスキーの書法から暗示をうけたヘテロフォニーという名の擬似ポリフォニーと、オスティナート・ドローンという擬似ホモフォニーへと構造化をとげる。
 いっぽうこの音響的に特化された音楽が、発端がどうであれ、あたかも近代的個の崩壊の過程を演算するかのように形式的発展をたどることから、われわれはいやおうなく、それが戦後日本社会における状況を反映する、あまりに文学的(私小説的)なあり方を示すことに驚くことになる。
 こうして三善晃の音楽にも聴かれるように(註4)、しばしば能や歌舞伎といった伝統芸能を暗示し、またあるときは主情的な文学的ドラマでもある、仮想現実をめぐる演技的空間に、音楽はくりかえし纂奪される。、日本近代という固有の文化が封印された内部と、それらと密接にかかわる音楽表現形式として外部からもたらされた方法論とのあいだに、直接的な関連性をみいだすことはむずかしい。ともあれ表現者がほんらいの技法とはかけ離れたところでおこなう生々しい表出は、ある意味で表現主義的な様相をおびる。こうしたリビドーとしての自己消費型サイクルをもつ創作には、知としての音楽のあり方からとうぜん帰結される、創造原理じたいが内包する、統治としての文化というコードと、人間という不確かなあり方とのあいだで、たがいに侵犯を繰り返すあやうさはない。創造とは、はてしない自己表現の結果というよりは、「世界という構造と向き合う自己」という対になる構造から算出されるのである。

◎汎アジア主義というエキゾティズム

 三善晃の《レクイエム》(1971)が、まさに戦中・戦後という日本近代の終焉としての弔いの儀式であるならば、万博以降、1980年代までのグローバリズムは、日本近代をアジア的多様性という視座から定義しなおしたものともいえよう。
 松村禎三のピアノ協奏曲第1番、同第2番は1973、78年に作曲されたが、第1番における鎮魂(註5)としての御詠歌や、民族楽器の響きを模した第2番におけるピアノ書法は、あたかも想像上の汎アジア的なエキゾティズムという異界を、創造という虚構の劇場に移したものだ。
 80年代を代表する作品として知られる西村朗の2台のピアノと管弦楽の《ヘテロフォニー》(1987)も、(かたや昭和後期、かたや平成バブルの予兆という時代意識の差こそあれ)松村の創造の軌跡なくしては生まれなかったであろうすぐれた音楽である。いっぽうでこれらの音楽は、東洋・西洋という従来のコノテーションが、管弦楽的音響の精密なデジタル的変換を介して乱反射した今様オリエント・オリエンテーション(東洋案内)ともいえる。
 また、ふたりの作曲家自身が認めているように、これらの作品に認められる広義のアジア的宗教観念に、祭祀としての創造というアジア的統治にかかわる意識がかいまみられる点には、あらためて興味をおぼえる。
 アジアという記号による無国籍なポップ・カルチャーの隆盛のもと、音楽が生まれる社会構造の基盤としての、歴史的なアジア的統治・文化様式を視野にいれながら、創造におけるあらたな展望は生まれるのであろうか?

註1 伊福部昭『管絃楽法』(音楽之友社、初版1953)。同書は1968年上巻として改訂され、同時に下巻が刊行、2008年『完本管絃楽法』として新版刊行。
註2 ベルリオーズ/シュトラウス『管弦楽法』(小鍛冶邦隆監修、広瀬大介訳、音楽之友社、2006)をみれば、18世紀から20世紀初頭にいたる演奏実践としての管弦楽法の変遷が、歴史的な作曲技法といかに具体的にかかわっているのか理解できるだろう。
 伊福部『管絃楽法』にみられるような、歴史性を捨象した水準で自由に扱えるマトリックスとしての管弦楽法の位置づけは、戦後日本における「前衛音楽」という、そのほんらいの歴史的コンテクストから切り離された便宜的な位置づけと共通しているといえるかもしれない。本連載第10回「日本戦後日本音楽史──前衛とアカデミズムの逸話(1)」参照。
註3 管弦楽の音響構成ほんらいの基礎倍音(完全8度、5度)を完全4度や増4度に置き換え、中・高音域に部分音を密集させて、あたかも非整数倍音によるかのようなノイズ的な音響を生みだす。また頻出するユニゾンも、歴史的にもちいられてきた補色関係の楽器法を避けることで、結果的に倍音原理に収斂されない手法が本能的にもちいられている。
註4 本連載第11回「日本戦後音楽史──前衛とアカデミズムの逸話(2)」参照。
註5 松村禎三はピアノ協奏曲第1番の創作時に、くりかえしモーツァルトの《レクイエム》KV626を聴いたと、筆者に語った。

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