◎連載
第6回 悔悟する2人のペテロ

音楽・知のメモリア (小鍛冶邦隆)

 19世紀音楽におけるロマン主義には、孤独、憧憬、さすらいといった市民社会における現実逃避と夢想による代償作用が機能している。またロマン派とひとまとめに区分されるが、おのおのの作曲家の出自をみれば、いわゆる勤労者としての小市民(下層中産階級)から、あるていどの成功者(ブルジョワ=上層中産階級)としての市民社会の子弟が、その大半をしめることをあらためて指摘するまでもないであろう(これは今日にいたるまで変わらない)。
 ところで孤独、憧憬、さすらいといった前出のロマン的概念は、音楽語法というきわめて個人的な表出を通じて表現(告白)されるのである。
 ロマン主義的語法は、ブルーメも指摘するように、一般的に考えられているような革新性を根拠とするよりは、むしろ古典主義様式の延長としてのあり方こそが、重要であるといえる。とすれば、古典主義という汎用的な語法にあって、ロマン主義の個人化された表現は、内面の告白という特化された言説を形成するというところに注目したい。

《未完成交響曲》──シューベルトの場合

 フランツ・ペーテル・シューベルト(1797~1828)のもっとも知られた作品である、《未完成交響曲》=交響曲第7(8)番ロ短調D759(1821)は、断章として2楽章のみ完成されたかたちで残され、その伝承と復活(1865年)は、まさにロマン的な物語を形成する。
 断章という未完の、すべてが語られることのない物語は、ここでもきわめて個人的な告白のかたちをとっている。《未完成》の成立と関連して、しばしば引用される、同時期に書かれたシューベルトの自叙伝断片『私の夢』の内容は、別れ、さすらい、愛と苦しみ、あるいは死と至福のうちの浄化といった、第1、2楽章の音楽的特徴をあるていど象徴するともいえる。こうした聴き手の平均的理解の水準(ロマン主義という制度的言説)としての表現から、さらに具体的な音楽語法の実質をみてみよう。

調選択と楽器法という音響的特性化

 18世紀にけっして用いられることのなかったロ短調、教会音楽ないしは劇音楽の楽器法に属するトロンボーン(もちろんベートーヴェンの交響曲に先例がある)、および特殊な調選択の結果、通常のティンパニの最高音域からさらに半音高いfis音をともなう、異常なほどに張りつめた管弦楽的音響性格による第1楽章は、ロマン的というよりも、ある種の劇的性格(悲劇性)を前提にしているといってよいだろう。
 オーケストラ音楽の調性を決定するためには、(ドからラまでの音階による)ヘクサコルド読みが伝統的に用いられるが、さらに音域の高いシを主音とする場合、(それゆえ、オクターヴ低い「バッソ」がしばしば用いられる)変ロ長調のみが一般的に用いられてきた。ロ短調には、古典派の交響曲にみられる高音域の変ロ長調(たとえばモーツァルトの交響曲第33番など)と補完関係にある、低い変ロ長調(ベートーヴェンの交響曲第4番など)におけるオクターヴ低い「バッソ」を用いた落ち着いた調設定の伝統がなく、書式から排除されてきたのである。また、高い変ロ長調では、とうぜんトランペットとティンパニは、こうした高音域の調設定からは除外され、高音域のホルン(アルト・ホルン)が用いられてきた(トランペット、ティンパニのない、シューベルトの交響曲第5番変ロ長調D485では、通常のバッソのホルン[B管]を用いており、すでに伝統的なアルト・ホルンの用法はみられない)。
 とりあえずはウィーン古典派の伝統的書法の枠内で、すでに6曲の交響曲を書いてきたシューベルトが、《未完成》に異例な作曲上の前提を設定することじたいが、作品の完成をさまたげたというような議論は不毛であろうし、むしろ《未完成》の表現を形成する音響的必然性を考察してみるべきと思える(第4回連載でとりあげた、モーツァルトのト短調交響曲の2本のホルンのうち1本は、アルト・ホルン[B管]であり、すでに調設定における、ある種の特異性を暗示している。ベートーヴェンにおいても、交響曲第7番が、ヘクサコルドにおけるイ長調という最高音域の特性=アルトとしてのみ存在するA管ホルンと、イ長調には通常用いられないトランペットとティンパニなどが、その躁状態ともいえる両端楽章の音楽的実質を形成する)。
 また《未完成》にみるホルン(D管)の選択は慣習的、しかし同様にD管が選択されるはずのトランペット(E管)は、おそらく主調ロ短調にたいしてシューベルト特有のサブドミナント系の調・和音選択の傾向(展開部にみられるホ短調など)と関係があると思える。こうした古典的管弦楽法の延長線上に生じる(トロンボーンやティンパニの用法なども含めた)異質性において、《未完成》の表出性の特徴を、ほんらい考察すべきであろう。

主題の暗喩するもの

 低弦のユニゾンで提示される導入主題(譜例1参照)は、ロマン派特有の主題においても歌謡的である点のみならず、むしろその構造の特異性においてきわだつ。たとえば4~5小節のa-fis-g-dという音型は、一般的な和声付けをすることの困難なもので、じっさい、展開部において(184小節以降)この音型による動機的展開にあたり、シューベルトは例外的な和声処理をおこなっている。とうぜんこの導入主題にひきつづき(9小節以降)、焦燥感と憧れに満ちた、本来の主要主題が提示されるが、展開部のみならず、楽章全体において用いられるのは導入主題のみである。
 低音域で声をひそめ吟唱されるこの主題の意味は、とうぜんながら《未完成》の音楽的実質にかんするさまざまな言説を呼び起こす。しかしながらここでは、さきほど和声処理が困難と指摘した音型や、主題冒頭の3度内の動きから、単旋聖歌にみられるような旋法的性格が想定され、それらが《未完成》の劇的かつ(しばしば対位法的書法が援用される)宗教音楽様式と関連があるとは考えられないであろうか?
 もちろん第2主題のレントラーふう(大衆的)性格が、並列的に配置されるが、62小節の唐突な全休止後の劇的な挿入部分(ここでもサブドミナント領域の変化和音が用いられる)が、つねに対比される。また展開部における劇的性格は、これらの身振りをより強調したものであろう。第2主題中間ペリオーデ(63小節以降)や展開部で表現されるものは、あきらかに精神的・身体的苦痛の物質化(音響的表現)であり、とうぜんその背後に演ずる主体の精神と、これらを実体化する苦痛に満ちた「告白」という制度的言説の存在が暗示される。
 歴史的キリスト教社会と近代市民社会における、個人の在りかとしての「告白」という演技性が、表現する主体の根拠となるのである。しばしば言及されるところの、当時のシューベルトの性病の進行に由来する身体的苦痛と精神的不安が、どのように創作に影響をおよぼしたかという議論は、想像上の範囲を超えない。しかし自身と社会の関係としての倫理を顕在化するところの「病」は、おそらく「告白=悔悟」というキリスト教信者の統治としての密かな儀式性において、個人的=社会的に共有されるものとなる。この過程を抜きに、代償作用としての創作は、およそ困難なものになるであろう。
 ペテロ(ペーテル)は悔悟する。

譜例1サムネイル

《悲愴》・チャイコフスキーの場合

 ピョートル・イリイーチ・チャイコフスキー(1840~1893)が完成した最後の交響曲第6番《悲愴》(1893年初演)は、シューベルトの《未完成交響曲》(1821)と、ロ短調という、交響曲にあっては異例の調性を共有するのみならず、いわば本歌取りともいえる性格をもつものである。
 その主題はあきらかに《未完成》第1楽章冒頭主題を暗示するとともに、おそらくは《悲愴(Pathétique)》というタイトルが示すように、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ《悲愴》作品13ハ短調の、冒頭序奏主題の引用とも考えられる(譜例1、2参照)。
 《悲愴》交響曲にみる、ロマン主義における音楽表現としての「告白」の意味する問題を、シューベルトの《未完成》で考察した観点と関連させながら、再度検討してみよう。

譜例2


ロマン派「交響曲」における宗教的イメージ

 シューベルトの最後の交響曲第8(9)番ハ長調D944(1828)の、作曲家の死後11年をへた、メンデルスゾーンによる歴史的な初演(1839年、ライプチヒ)以降、その影響化にあるシューマンやブラームス(さらにブルックナーも加えられよう)の交響曲創作の歴史には、とりわけ3本のトロンボーンの使用(さらにチューバ1本も加わる場合もある)のみならず、ロマン主義の原点のひとつとしての「根源的な(ursprünglich)」もの、汎神論的な宗教的神秘性がみられるといってよいのではないだろうか。教会音楽様式に代表される、コラールふう主題や対位法による書法が、それらの拠点となる。
 1877年に作曲された第4番以降のチャイコフスキーの後期交響曲では、ロシア固有の音楽的素材にくわえ、イタリアのベル・カント・オペラの旋律法とフランスのグランド=オペラからワーグナーにいたる管弦楽法によるオペラ様式、さらに、とりわけフランス・バレー音楽ふう趣味が、独自のロシア・西欧的な様式を生み出している点についてはいうまでもない。
 ところで《悲愴》における宗教的イメージと考えられる箇所を検討してみよう。第1楽章展開部の激越な前半の頂点では、音楽的頂点(190小節)の変ロ音のために配されたともいえる変ロ管トランペットが、主調がロ短調であるにもかかわらず、第1楽章を通じて用いられている(上記「調選択と楽器法という音響的特性化」の項を参照)。その後、突如出現するロシア正教会の聖歌=死者のための賛歌(202小節以降)が、展開部後半の黙示録的ともいえる劇的頂点へと導く。聖歌の引用同様に、あたかも黙示録=終末論的な審判の時を告げる喇叭を暗示する、3本のトロンボーンとチューバによる斉奏(286小節以降)は、終楽章終結部直前(137小節以降)の、伝統的な埋葬時の奏楽(Equale)の様式を思わせる、やはりトロンボーンとチューバによる四重奏ともに、交響曲における宗教性の反映について考えさせられる。

音型的統一によるアフェクト

 さらに《悲愴》では、第1楽章導入部最後の、全音階的な4度下降音型(15小節以降)のアフェクト(情緒性=冒頭6小節間の半音階的4度下降音型[e~h]の修辞的象徴性[悲しみ、苦痛など]ともかかわる)による、全4楽章における音型的統一ともいえる手法がみられる。
 第1楽章全体において明らかなように、バレー音楽ふうイディオム(5拍子の異例なワルツ)にもとづく第2楽章や、焦燥的で諧謔的な(さらには暴力的でもある)行進曲としての第3楽章ですら、統一原理として作用している事実は興味深く思われる。さらに終楽章においても、アリオーソふうの悲痛な第1主題と、甘美な劇場ふう宗教様式のアリアを思わせる第2主題の構成は、明確な主題的統一によりながらも、たくみな和声法と管弦楽法により、みごとに差別化されている(譜例3参照)。
 しかしながら、およそ主観的な傾向の勝った創作と考えられることの多い《悲愴》にあって、これらの(主題)音型的統一性の意味するものは、なんなのであろうか。

譜例3


悔悟するペテロ

 シューベルトの《未完成》で暗示されていた「告白=悔悟」の名のもと、宗教という名の劇場にあって、もうひとりのペテロ(ピョートル)の過激な演劇性が表出するものを、シューベルトの性病と同様に、同性愛嗜好というチャイコフスキーの精神的・生理的特質と、近代市民社会の倫理と対峙させるのは、たぶん、公平な議論とはいえないだろう。
 創作という場における、(音楽的身振りを生み出す)書く主体の演技性とは、歴史的キリスト教社会の共同幻想に近いもの──《未完成》の宗教的悲劇性や《悲愴》の黙示録的情景──、あるいは聖なる音楽──《未完成》第2楽章の祝福された者〈ベネディクトゥス〉の鐘のイメージ(14~15、50_51小節など)──や、《悲愴》終楽章の第1主題の破滅的な最後の出現のさい鳴り響く、ホルンのゲシュトップ奏法による異常な(金属的)音色による弔いの鐘の幻想(126小節以降)──というかたちで実体化されるのであろう。これらのイメージを配置する内的規律こそが、(主題)音型的統一の意味であり、また創造する主体の意識のあり方でもある。やがて「告白」という内的体験の外在化は、ロマン主義的幻想の果てに、人間精神の識閾の病理的な領域として、「無意識」という音楽の新たなディスクール(精神分析)をも、編成するのである。

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