◎連載
第2回 セバスティアン・コード(2)

音楽・知のメモリア (小鍛冶邦隆)

 ヨハン・セバスティアン・バッハの《インヴェンション》と《シンフォニア》に想定されるところの、教育的・理論的水準についてはすでにふれた。1723年にまとめられた、この2つの曲集から、およそ20年後には《フーガの技法》というタイトルで知られる、バッハの対位法技術の秘儀的作品集が構想されたと考えられる。
 《フーガの技法》の作曲は1742年以降、死の前年である1749年にいたるまで、断続的に進展したと思われる。《フーガの技法》は単一主題によるフーガとカノンによる連作(ツィクルス)として、未完に終わったとしても、《インヴェンション》と《シンフォニア》において体系化が試みられた対位法にかんする、極限的な理論的作品であることにまちがいない。

外部から内部へ

 前回、《インヴェンション》の配列・配置という装置(Dispositif)を通じて、そこに理論と学習のプログラムを読み取った。《フーガの技法》は未完の作品として、従来から、自筆譜とバッハ自身による出版の意図をめぐる、さまざまな水準での配列が問題とされているが、具体的にバッハ晩年の理論的構想を推測してみよう。
 外的な構造的枠組みとしては、1)コントラプンクトゥス1-4=基本主題と反行主題による4声単純フーガ、2)コントラプンクトゥス5-7=基本・反行主題による4声フーガ(Gegenfuge)、3)コントラプンクトゥス8-11=3声と4声の三重フーガに囲まれた、12度と10度音程による4声転回フーガ、4)コントラプンクトゥス12-13=4声と3声の鏡像フーガ(反行・基本)、5)4曲のさまざまな2声カノン、6)没後出版された楽譜には、さらにコントラプンクトゥス13の2台のクラヴィーア用編曲とコントラプンクトゥス10の初期稿、未完の4声フーガとコラールBWV668が収録されている。

 1)~5)がほんらいの《フーガの技法》の構想にかかわる対位法的範例であると考えられるが、6)の未完フーガは、基本主題と四重フーガを実現する可能性において、この作品集ほんらいの構想にふくまれるのではないかと考えられてきた。
 こうした外部の配置の重要性はとりあえずおくとして、ここではコントラプンクトゥス8と11のふたつの三重フーガの内部構造から、《フーガの技法》の理論的水準を読み解くコード(体系としての規範)をみてみよう。

多重フーガと転回対位法

 コントラプンクトゥス8と11は、それぞれ3声と4声の(3つの主題による)三重フーガの範例として、第3グループの外枠として置かれていると考えられる。内部に置かれたコントラプンクトゥス9と10は、基本主題にたいし、それぞれ12度と10度による対主題の転回対位法を可能とする二重フーガである。
 伝統的対位法の重要な技法である転回対位法は、対応する主題間で声部位置を上下に転回するさい、相互に対応する音程が変更され、音響的テクスチュアが変化するきわめて高度な技術である。とうぜんながら《インヴェンション》や《シンフォニア》では、基本的な音程である8度の転回音程のみが用いられているが、こうした転回対位法の歴史的意味については、次回でふれる。
 第3グループの範例(歴史的パラダイム)としての意味は、外枠である8度音程の転回による三重フーガと、内部の12、10度音程による二重フーガの交差から生みだされる。音程の転回原理(8、12、10度)にもとづく主題の多重化による、新たな音楽的テクスチュアのオートマティックな生成の原理が(局部的とはいえ)試みられるといえよう。さらにコントラプンクトゥス8と11の三重フーガの構造は、きわめてまれな事例であるが、互いの主題性と構造において浸潤しあう特異な関係を前提としている。それぞれの構成をみてみよう(「構成比較表」参照)。

内包・連鎖・外延

 多重フーガとして、それぞれの構成を組み立てているのは、個別の主題(と他主題との結合)による複数のフーガ提示である。5つのフーガ提示中、フーガ3を中軸として、前後の2つのフーガを配置する構成は共通している。しかしコントラプンクトゥス8では、あきらかにフーガ2とフーガ4が、主題性においてシンメトリーをなし、形式が「内包」により生じているといえる。コントラプンクトゥス11では、フーガ3を中軸としつつも、フーガ1と3、フーガ2と4、フーガ3と5という、互いに交差しつつも「連鎖」し(先行部分を集積しながら)「外延」化する形式が派生している(「構成比較表」参照)。
 2つのコントラプンクトゥスで用いられる基本主題と2つの主題は、コントラプンクトゥス11においてさらに新しい主題が加わる(交換される)ほかは共通しているので、それぞれのフーガ提示は(場合により主題基本形・反行形を入れ替えたとしても)構造的にきわめて類似したものとなる。対称的なフーガ提示に対し、各エピソードはバッハのフーガにみられる同様の対称性よりも、各フーガ提示部と相互に入り組みながらも、むしろ経時的展開をおこなうが、ここではこの問題にはふれない。
 ほぼ共有された音楽的テクストの構造化の方法的な差異のみが、この2つのコントラプンクトゥスを個別化している点に注目しよう。

内部から外部へ

 16世紀後半のザルリーノの音楽理論以来の、伝統的対位法のモニュメンタルな作品集として構想されたと考えられる《フーガの技法》で、バッハは対位法による音楽的テクスト生成の方法を範例化することを意図したといえる。
 《インヴェンション》と《シンフォニア》における、多様な様式による孤立した自発的な創作を、一定の配列・配置の許に新たな構造原理に集約していく方法に対して、《フーガの技法》では、アプリオリ(歴史的)な構造原理が各部分(コントラプンクトゥス)を規定していく方法が対峙する。
 コントラプンクトゥス8に内在する構造が、その内部性をコントラプンクトゥス11と共有することで、内部が他の外部を内包しつつ外延化する原理が、音楽の生産性を保証するといえる。網状化して内部と外部を交換し増殖しつづける、その可逆的システムと不可逆の時間形式としての音楽的テクストは、やがて第4グループとしての、時間(同一の時間形式)と空間(音程的総反行と声部転回)の歪みとしての「鏡像フーガ」(コントラプンクトゥス12、13)の音楽的実存の極北にいたるのである。
 時間という係数のもとにあらゆる現象を推移として解析する、近代の流儀に慣らされたゆえか、分類と記号化による凍てついた知の極限を、われわれは見失ってひさしい。バッハという、音楽における理論と学習のネットワークとしての知の記憶装置(メモリア)を、再起動させる刻(とき)がおとずれたのである。

構成比較表

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