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<title>Artes * Web連載</title>
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<title>第８回　これ以上、音楽を作る必要があるのか？</title>
<description><![CDATA[　私は芸術大学の作曲科というところに行ったので、卒業するまで毎年課題作品を提出しなければならなかった。作曲にはげんでいるかどうかが、担当の先生とのあいさつがわりの会話だったし、友人とのあいだでも作曲が進んでいるかどうかがよく話題となった。
　にもかかわらず私は、世の中にこんなにたくさんの曲があるのに、私のようなものが新しい曲を書く意味はなんだろう、というじつに素朴な、しかしそれゆえにかえってタブーに近いような自問自答を、心のなかから追いはらうことができなかった。そもそも作曲科に行ったのは、作曲がやりたかったからだろう？──といわれればまあそのとおりだし、いままでにない独創的で新しい音楽を作ることができるとしたら、そこには意味があるだろうということも、もちろん理解してはいたのだが。
　別の話──。あるとき友人の美術家が教えている美術大学を訪ねたときのこと。裏の倉庫のようなところに、おびただしい数の絵が放置してあるのを目にした。学生が提出した作品や、制作したきり持ち帰らなかった作品だという。そのスペースはすでに限界に達しつつあるようだった。しかし、絵は毎年一定量増えてゆく。収まらなくなったらどうするのかとたずねると、適当に焼却処分するのだという。保管の限度を超えた絵は棄てられるわけである。美術品というものは究極的にはゴミなのだと思った。
　世界に画家といわれる人が何人いるのかわからないが、彼らが年間に生産する絵画の量はどれくらいなのだろう？　このままわれわれの世界がずっと続くとするなら、そのうちそれは地球上を覆いつくすほどに増えてしまうのではないだろうか？　身動きがとれなくなるほどに絵でいっぱいになってしまった世界──。それは漫画的な妄想でしかないが、一面の真理もある。つまり、地球上には絵というものが不可逆的に増えつづけていくということである。
　音楽は絵のように場所をとらないので、このような状況はさほど想像しにくいが、ある時代からこっち、地球上の音楽は増えつづけ、どんどん蓄積されてきていることはたしかだ。楽譜であれ、CDのような音源であれ、ディジタル化されることによって、劣化・散逸の危険は飛躍的に減少した。音楽の保存状況にかんしていえば、たった100年前といえども石器時代に等しい。
　バッハの時代には、作品をすえながく残そうという意欲はあまり強くなかったようだ。新作された作品の楽譜でさえ、いちど演奏がすんだら、さほど注意深くはあつかわれなかった。そのようにして、バッハの作品は完全に忘れ去られていった。
　だが、ご存知のように100年ほどへたのち、彼の作品はふたたび注目の対象となりはじめる。いつの時代にもオタクな人々がいるようで、忘れ去られていたバッハの作品の楽譜を収集していたほんのひとにぎりの好事家の私的なコレクションから、まずは復興がはじまった。その後各地でバッハ作品の発掘がはじまる。音楽学という学問は、そういった収集、鑑定、整理のための方法論が必要となったことによって生まれた。こうした書誌学的な研究は、いまでも音楽学のなかの重要な部門といってよいだろう。
　このように多くの努力がはらわれてきたにもかかわらず、いまだにすべてのバッハ作品が、発見され整理されアーカイヴ化されているわけではない。最近でもヨーロッパのどこかで、知られざるバッハ作品が新発見？　といったニュースが耳目を集めることがある。古い教会や貴族の館の物入れから埃にまみれた大作曲家の手稿を発見するのは、いまなお音楽史学者のみるインディー・ジョーンズ的夢のようである。
　こういった過去の作品の発掘と保存は、どうやらバッハ作品復活のころからはじまったようである。それはいうまでもなく、啓蒙思想や歴史意識の発生、さらにはヘーゲル的な──世の中が右肩上がりに進歩するという──世界観と深くかかわる現象である。またここには、西洋芸術音楽をその他の世界の音楽から切り離して特別あつかいするために、合理的な歴史的説明が必要とされたという事情もおおいにかかわっている。金字塔のごとくそびえる西洋芸術音楽が、みずからの成立についての説明を必要とするのは、京都あたりの老舗が室町時代あたりからの店の縁起をまことしやかに吹聴するのとさほど変わらない。
　もうひとつ、作曲というものをささえているのは、芸術家の創作というものにたいする無条件の肯定である。弟子にたいして作曲に専心しているかどうかを問う先生の意識には、芸術家が作品を作りだすことは、（たとえ生まれたものが駄作であろうと）貴重な営為である、という強い信念のようなものがある。この信念と右肩上がりの歴史観は、じつは同じ意識に根をもつものであり、「アジアの街の作曲科」という奇妙な状況にも深く浸透しているのである。
　いまでは少々状況が異なるかもしれないが、私の時代、作曲科の学生が書くべき音楽は、「現代音楽」という社会的にさほど認められていない領域にかぎられていた。ほとんど需要もなく、見返りも悲惨なほどに期待できないジャンルである。にもかかわらず、彼が創作を続ける意義は二つある。ひとつはこの西洋的モダニズムにおける創造というイデオロギーへの信仰にたいして帰依を示すこと。もうひとつは、そんな狭い市場のなかでのわずかなチャンスをものにするため、という現実的な理由である（作りつづけなければわずかなチャンスもめぐってはこない）。
　われわれ作曲の学徒が、人々から見向きもされない新しい音楽を作りだすそのいっぽうで、市場ではバロック音楽や、マーラーやブルックナーの交響曲といった、これまた見向きもされていなかった多くのレパートリーが再開発され、芸術音楽のアーカイヴに組みこまれ、ふくらんでゆく。しかし、データベースがいくら巨大になっても、とりだされ消費される量がそれほど増えるわけではない。消費されるデータ量がかぎられるのは、人々の感性が時代や社会の世界観に制限されるからである。とうぜんながら、時代の流行からもれたものは見捨てられたままに終わる。かりに音楽作品の博物館が作られ、優秀な館員の努力により、完璧なコレクションができあがったとしても、その大部分はとりだされることなく終わるだろう。時代がめぐり、ほんらいの文脈からそうとうに隔たった理解のされかたによって、ふたたびとりだされることになる可能性は──バッハのときのように──もしかしたらあるかもしれないにせよ。
　ここまで書きすすめてきたような西洋モダニズムにたいする醒めた視点は、いまでは多くの場面で散見されるようになった。音楽は進歩しなくてはならず、つねに新製品が開発されなくてはならないという、西洋芸術音楽にたいする18世紀以後のやや強迫的な意識は、どうも終わりはじめているようである。若者たちがポップスの新作にたいしてもつ期待感もだいぶ弱まってきているし、音楽産業は新しい企画よりも、いままでのレパートリーを再利用する消極的なビジネスに終始している。
　人によってはこれを音楽の衰退と考えるかもしれないが、西洋近代の音楽（や芸術）の大きな物語が凋落したことの現れと考えるほうが順当だろう。いま問われるべきなのは、たんなる技法上の可能性のなかでのラディカルさではなく、上記のような物語に頼れなくなった状況において、新しい音楽の姿を考えることである。
　作曲家の近藤譲は、音楽は多面的なものであり、いまだに多くの謎を秘めたものであるがゆえに、その謎への問いを立てるところにこそ作曲という行為の意義があると述べているが、これは西洋近代のイデオロギーのなかのある部分を逆手にとって、もう無用となりつつある作曲にあえて意義をみつけようとする試みに思える。前衛的な芸術は社会から孤立し、その自律性を貫徹することによって、社会にたいする鋭い刃となるという、晩年のアドルノの考えかたとも似ている。大きな物語に依存しない問題提起のありかたとしては、このような姿勢もありうるかもしれない。
　近藤のこのようないいかたは、美学者、A. C. ダントーのいう、それまでは表現の可能性の追求であった美術が、1960年代以後はみずからの存在意義を探すための哲学と化してしまったとする芸術終焉論とおおいに重なる。そう、いまの芸術は芸術自身の“自分探し”になってしまったのである。
　近藤自身はみずからの作品において、音と音の関係性を、それまで存在してきた音楽のエモーションやクリシェから解き放ち、異なるコンテクストでの音どうしが結びつく可能性を探究している。様式という大きな物語に依存することを拒否したその姿勢には、他にはない独自性がある。しかしながら、近藤の主張するように、作曲という行為によって音楽とはなにかを問うことは、ほんとうに可能なのだろうか？
　それが可能であるためには、作曲という行為が、みずからが属する音楽文化からのがれ、外部に立脚することが可能であることが前提であるように、私には思える。なぜなら作曲という行為がその属する文化のルールに埋没しているかぎり、その文化にたいして有効な問いを立てることは困難としか思えないからである。目は自分の目を見ることはできない。
　西洋音楽のその芸術性を成立させてきたのは、ローレンス・クレイマーのいうとおり、美学や評論などその音楽をめぐるディスクールという装置にほかならない。音楽の音響だけではその価値をささえることはできない。西洋音楽は評論されたり論究されたりすることによって、その芸術的価値を維持してきたのである。つまり、近藤のように問いを立てることは、ある意味では昔からおこなわれてきたことともいえる。むしろ一面では伝統的な思想に回収することもできるのである。
　作曲と哲学を同一視しようとする議論は、ヴァッケンローダーやシュレーゲルなどドイツロマン派の時代から多くみられるディスクールである。たとえば、E. T. A. ホフマンはベートーヴェンの第5交響曲論のなかで、音楽が未知の世界を示してくれる可能性について熱っぽく語っている。近藤の主張は、どこかこういったロマン派時代の議論と似かよったものを感じさせる。
　そもそも、作曲とはいくつかの異なる意味が歴史的に重層して、成立してきたものであるはずだ。バッハやハイドンがおこなった作曲とは、場や必要性におうじて音楽を現実化する「アレンジメント」という意味合いが強かった。啓蒙主義時代以後になると、その上に、それまではさほど重要なこととはされていなかった「個性」や「独自性」や「創造性」といった地層が積み重なることになる。しかし、すでに作曲という営為が始められた当初から、自然状態においてなりたつ音楽のありかたを超えて、人為的に音を構築するという、一種不自然な操作が当然視されていたことをみすごしてはならないだろう。いってみれば作曲とは、この人為的かつ不自然な操作のことなのであり、この方法があるときになりたち、その結果として生まれた音響が、人々に受け入れられるようになったために、その後作曲行為は加速化し、多くの曲が作られることになったのである。
　ここで大きな役割をはたしたのは、記譜法というものである。記譜法が作曲をうながしたといってもいい。逆にいえば、そもそも作曲は、記譜法が可能にした音楽の構想と具現化の可能性の範囲を超えることはできないのである。ヴィトゲンシュタインの「言いあらわせないことには口をつぐむしかない」という言葉になぞらえていうなら、記譜できない音楽は作曲できないし、書きあらわせない歌はうたえない。近藤のいう作曲という行為も、もちろんこの限定からのがれることはできまい。「問いを立てる」という哲学に似た作曲行為も、こういった西洋音楽のアート・ワールドのルールにしばられることになり、この限定を超えた謎はあらかじめ排除されていることになる。それゆえ近藤の試みはやはり、新しいテイストをもった音楽を開発するための方法論のひとつ、というあたりにとどまらざるをえないだろう。
　さらにこの議論をつきつめていくと、デリダのいわゆる「差延」という概念をもちだしたくなる。いくら問いを立てたとしても、それは芸術音楽というエクリチュールを反復することにならざるをえないだろう。近藤の音楽には、音の迷宮をさまようような独特のおもしろさがあるのだが、どこか閉じた空間のなかでのゲームのような感じがするのは、それがどこにもたどりつきそうもないデリダ的迷宮を音にリアライズしているからかもしれない（そしてそれはじゅうぶんにおもしろいものなのだが）。
　おそらく作曲という行為は、今後もまだ続いていくだろう。だが、少なくとも新製品の供給という機能はほぼ停止し、東浩紀のいうデータベース消費のひとつに吸いこまれていくだろう。最近のJポップのような音楽様式は、とうの昔から、実体から離れた差延的コピーの繰り返しになっているといえるかもしれない。作曲というものは、近藤の示唆する哲学的な問いというありかたも含めて、ダントーのいうように、王子と王女の波瀾万丈な冒険のはてにくる「それから二人はずっと幸せに暮らしましたとさ」以後の、退屈なホームドラマとしてしかなりたたないのかもしれない。

<p class="reference">［参考文献］<br />
テオドール・W. アドルノ（大久保健治訳）『美の理論』河出書房新社、1985<br />
東浩紀『動物化するポストモダン』講談社、2001<br />
近藤譲『〈音楽〉という謎』春秋社、2004<br />
E. T. A. ホフマン（鈴木潔訳）「ベートーヴェン・第五交響曲」、前川道介編『ドイツ・ロマン派全集第9巻　無限への憧憬』所収、国書刊行会、1984<br />
A. C. Danto, The Philosophical Disenfranchisement of Art, Columbia University Press, 1986.<br />
Lawrence Kramer, Subjectivity Ramapant! Music, Hermeneutics, and History. in The Cultural Study of Music, edited by Martin Clayton et al., Routledge, 2004.</p>]]></description>
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<category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">002反ヒューマニズム音楽論 （若尾裕）</category>


<pubDate>Fri, 12 Mar 2010 08:14:45 +0900</pubDate>
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<title>第７回　パイプダウン</title>
<description><![CDATA[<p>　イギリスにパイプダウンという団体がある。この団体はパイプト・ミュージック（piped music。公共空間での録音音楽の再生のこと。いわゆるバックグラウンド・ミュージック）の規制をめざす市民団体である（興味のある人は<a href="http://www.pipedown.info/" target="_blank">http://www.pipedown.info/</a>を参照されたい）。賛同者のなかで私の知る名前には、ピアニストのアルフレート・ブレンデルや指揮者のサイモン・ラトル、チェリストのジュリアン・ロイド・ウェッバーなどの名前がある。彼らは、現代社会においてもっとも不愉快な音を発するのは、削岩機でも車でも航空機でもなく、いまや音楽であることをさまざまな調査のデータをあげながら主張し、2000年にはこの団体の代表者のひとりである保守党議員、ロバート・キーが法案の提出を試みている。この法案は人びとが自分で選んで出かけるレストランやスポーツ・クラブなどでのBGMまで規制しようというわけではなく、公共交通や市民プールや病院などにかぎったもので、きわめて穏当な要望といってもよいもので、マスコミの注目を集めたものの、けっきょくはまだ法制化にはいたっていないようだ。<br />　ほかにもこのような指摘や主張をする人は多いにもかかわらず、なかなか実現できないのはなぜだろう。私にはそこに、いまのわれわれの音楽のもつ根本的な問題が潜んでいるようにも思えるのである。</p>
<p>　なぜこのような問題が生じてきたかについて、イギリスの音楽社会学者、サイモン・フリスは、音楽が私的な空間の形成にかかわるものになったためと指摘している。隣の家のパーティでかけられている音楽にいらだたされるのは、それが私的な領域に侵入してくるからである。だが、路上で生で奏でられたり歌われたりする音楽にたいして、いかにそれが技術的にひどいものであろうと、われわれがより寛容でありうるのは、それが社会的なできごとであり、私的空間への侵入の感覚がより薄いからだと彼はいう。この指摘はおおいに意味がある。<br />　『うるさい日本の私』（洋泉社、1996／新潮文庫、1999）を書いた中島義道氏が指摘する「騒音」は、音楽だけにかぎらないが、簡単にいえばこういった私的空間にたいしての、音楽も含めた他者の声の侵入の問題ととらえることができるだろう。したがって、これはたんなる騒音問題ではないのである。ところが、そのような音にかんしての意味論的な認識が薄いため、「騒音」が物理的なエネルギーとその知覚の問題として処理されてきているところに、この問題の解決が大きく立ち遅れている理由があるといえるだろう。</p>
<p>　パイプト・ミュージックといういい方は、電気増幅というテクノロジーを使って、水道の蛇口をひねると水がパイプを通って出てくるように音楽が出てくるシステムのことを意味する。このことから、とうぜん彼らが最初から録音された音楽の再生を問題にしていることはたしかである。しかしながらフリスは、音楽の私的空間化にとって、音楽の録音という技術がひとつの因として作用していることにはあまり注目していないようにみえる。<br />　録音された音楽がなぜ私的空間を作り、さらに他者の空間を侵害するかは、それが私有化されたモノとなったからである。ある場において生（ライヴ）でパフォームされている音楽は、場というものによって成立しているがゆえに社会的な存在であるが、その録音はほんらいのコンテクストから離れ、音響のみがモノ化されたものである。フリードリヒ・キットラーのいい方を借りれば、音というものの波形やファイルという別のメディアへの変換によって起こった、19世紀末に端を発する現象と考えてもよいかもしれない。<br />　この音響はモノ化されているために簡単に持ち運べて、どこでも再生できるようになった。つまり個人のプロパティ（持ちもの）となってしまったのである。アップル社のiPodは音楽の個人をプロパティ化することの現在形のひとつである。音楽がイヤフォンから耳へという個人の空間にとどまるかぎりにおいては、なんの問題も生じない。だが、これが他者に聞こえる音響物となって他者の空間に入りこむなら、空間の侵害がそこに物理的に生じることは、とうぜん考えるまでもない。<br />　さらに、音楽による私的空間の形成の要因として、調性による和声音楽という一般的な音楽に共通する特質もおおいにかかわっていると思われる。録音技術が音響に可搬性をあたえたというだけでは、音楽による私的空間の形成とその侵害という問題についての説明がふじゅうぶんであるように思えるのだ。</p>
<p>　調性による和声音楽が可能としたのは、音楽の音響と情動の対応関係の確立である。長三和音が明るく、短三和音が暗いというような単純なレヴェルだけでなく、調性音楽はさまざまな情動のレパートリーを単純化して整理し、和声技法というかたちでの対応関係を築いていった。音楽社会学者のティア・デノーラは人びとがさまざまな録音音楽を自己の調整のために使っていることを、自己のテクノロジーとよんでいるが、それはそのような調性音楽のもつ情動作用の積極的な利用法である。料理をするときにはラテン音楽がいちばんという主婦や、落ち着くときにはシューベルトの変ト長調の即興曲を使う人や、朝の目覚めを快適にするためにある決められた音楽を使う人など、音楽とその用法になんの対応関係もみいだせないような個人的な音楽の使用のあり方がいまの時代には成立しているのである。ここでは他者との音楽の共有はまったく考えられておらず、ただ音楽が私的な空間の形成に使われているのみである。<br />　そのような私的空間としての他者の音楽音響に、人がそくざに嫌悪感をもつことがあるのは、それが情動言語として意味をもつからである。のんびりとした気分でいるときに、とつぜん明るく快活な音楽が侵入してきたら、それはたんなる音響的ノイズというだけでなく、その音響がさし示すところの情動を強制的にもたらす暴力となりうる。われわれの耳にあまり情動言語的な意味をもたらさない耳慣れない異国の音楽であるならば、音響的な違和感は生じさせても、情動的な嫌悪感はさほど生じさせないだろう。人は自分の空間において自分の気分の自由が奪われるがゆえに、外からの音楽の侵入に気分を害するのである。<br />　逆にいうなら、こういった調性音楽のもたらす作用が、公共の場で人びとを管理するために音楽を使おうとすること──つまり、パイプト・ミュージックのような試みを多く生じさせてきたと考えるべきなのである。すなわち、楽しい音楽は人びとを幸せにするというあの思想である。<br />　反対に、ある場に若者をあまり集まらせないようにするために、意図的にクラシック音楽をかけるという例もあるようだし、若者向けの場所に高齢者が好まないようなノイジーな音楽をかけて彼らを入りにくくすることも、完全に意図的とはいえないにせよ、じっさいには起こっている。ここでは音楽が、自己調整のテクノロジーを裏返しにした、排除のテクノロジーとして使われていることになる。こういった排除のテクノロジーとしての音楽は、ラジオ放送の普及以後、国家や民族という規模にまで拡大され、近年のバルカン紛争においては一種の戦争のような様相<span class="reference"><a href="#wakao07_01">（註１）</a></span>さえ呈するようになる。<br />　さらには、緊急事態にあって人びとを安全に避難誘導するためにはどのような音楽を使えばよいかということや、植物や動物に音楽を聴かせたりしてその生産効率を研究することについて説く人が現れたりする。ここから、大多数の人びとにどういった音楽を聴かせれば健康が促進されうるか、という研究まではあと一歩である。現行の音楽療法というものに、ある一定の人びとが根本的な不信感をいだくのは、こういった発想が見え隠れするからにちがいない。<br />　私としては、このような素朴な社会工学の道具として音楽が研究されることじたいに、恐れ以上のものを感じているのであるが、同時にこんなことをしてもけっして成果はあがらないであろうことも予測している。こういった発想は、さきほど指摘したモノ化した音楽と、それをたんなる音の刺激として受けとる人間という関係性を前提にしているが、これは欧米という限定された地域において、ある特定の時代に成立した音楽のイデオロギーにすぎないからである。したがって、ある文化圏におけるある時代の流行としてという限定つきであれば、ありうることかもしれないと、うんざりしながらもそれに同意してもよい。</p>
<p>　パイプダウンが問題にしているのは、公共空間におけるモノ化した音楽であるが、もうひとつの公共空間である公共放送における音楽の使用については、誰も問題視していないようにみえるのは不思議なことである。テレビを観ていて、音楽が入りこまない時間はいったい全体の何パーセントだろう？　意識してみると、驚くほど多量の音楽が使用されていることがわかるだろう。テレビ・ドラマに音楽が使われるのは演出の一部であり、ドラマの成立の根幹にかかわるものであると考えるなら、これは制作者の意図であるわけだから、その音楽の使用に辟易としているよりもいっそ観なければよいという考え方もなりたつかもしれない（日本のように、多くの人にとってテレビを観ることが習慣化している社会では、そのように片づけてよい問題とも思えないのだが）。<br />　それでは、ニュースのような場合ではどうだろうか？　9.11の事件の映像にたいして、イギリスのITN（Independent Television News。イギリスのテレビ番組制作会社のひとつ）がグノーの《審判官》という深刻な音楽を付けたことを、英国放送委員会が不適切と指摘したそうだが、たしかにこういった報道において、なんらかの音楽で情動の方向づけをすることには問題があるだろう。ITN側は、音楽の選択はこの事件の深刻さと葬送的気分にじゅうぶん配慮したものであると主張しているが、言葉もなくあの映像を観ている人にとっては、そのような情動教育的配慮はこころよいものではないだろう。<br />　わが国の放送においては、さまざまなお茶の間的映像にお茶の間的音楽が付加され、お茶の間的疑似公共空間が形成されることが日常的である。たとえば満開の桜を紹介する映像にどのような音楽を挿入するかは、完全に番組制作者にまかされている。上記の9.11のシーンに付けられた音楽は不適切と判断されたが、では何をもって適切と判断されるのだろうか？<br />　最終的には番組の制作者が決めることになるのだが、かといって彼／彼女がそれを勝手に決めてしまえるわけではない。担当者は、自分も含めて視聴者が適切と判断するであろう音楽を選ぶことになる。<br />　では、そもそも満開の桜とそれに対応する情動状態は誰が作るものなのか？　人びとが作るのだろうか？　社会が作るのだろうか？　もちろん、それが人びとのある合意のうえになりたつことはたしかだが、逆に、ここには人びとのなかに内面化された自己規制とモラルが働いていることも考慮に入れなければならない。ミシェル・フーコーのいう管理と監視のパノプティコン（一望監視システム）のようなシステムが発動しているのである。かくしてお茶の間的映像にお茶の間的音楽が付けられ、人びとは自己規制的なお茶の間的情動を味わうことになる。<br />　パイプダウンのような団体も含め、多くの背景音楽にたいして問題を指摘している人びとも、放送における音楽の使用についてはなんの問題も提起していないことに、私は不思議さをおぼえる。私は放送における音楽の濫用についても、ある一定の法的規制が必要だと感じている。少なくとも、ドラマなどのように表現意図が明確である場合をのぞき、表現の主体が明確でない放送時間における音楽使用を制限することを求めるのは穏当な要求だと考えている。<br />　そして、私がもっと懸念するのは、じつは音楽の世界全体がこのような自己規制的お茶の間化してしまっているのではないかということなのである。</p>

<p class="reference">
<a name="wakao07_01"></a>［註］<br />
　セルビア、ボスニア＝ヘルツェゴビナ、クロアチアなどの共同体が、それぞれ自分たちの民謡をポップ化したもの（ターボ＝フォークと呼ばれる）を放送で殺伐とぶつけあうような状態。</p>
<p class="reference">［参考文献］<br />
　DeNora, Tia: Music in Everyday Life, Cambridge University Press, 2000.<br />
　Frith, Simon: Music and Everyday Life. pp.92-101 in The Cultural Study of Music, Edited by Martin Clayton, Trevor Herbert and Richard Middleton, Routledge, 2003.<br />
　フリードリヒ・キットラー（石光泰夫ほか訳）：『グラモフォン・フィルム・タイプライター（上・下）』ちくま学芸文庫、2006</p>]]></description>
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<category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">002反ヒューマニズム音楽論 （若尾裕）</category>


<pubDate>Tue, 25 Aug 2009 14:24:54 +0900</pubDate>
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<title>第６回　感情労働としての音楽</title>
<description><![CDATA[<p>　こんにち、世界に作曲家とよばれる人が何人いるかはわからないが、そのなかで、自分が作りたい音楽だけを作っている人はごく一部だろう。ほとんどの作曲家はなんらかのかたちで注文を受けて音楽を作っている。注文のある仕事をひきうけないとしたら、教職など他の仕事をするか、ジョン・ケージのように清貧に暮らすしかない。<br />
　この、注文による作曲も、ときたまのことなら、他の仕事のあいまの息抜きていどにとどまるかもしれないが、放送業界においてのように、大量の音楽を一時期に作りあげることになると、これはかなりたいへんなことだ。このような場では多くの場合、調性と三和音を使ったもの──つまり普通の音楽──が要求されるので、同じような音符を同じように並べなければならない仕事がえんえんと続く。必死に音符やメロディを絞り出す努力のすえ、最後にはもう１音符たりとも頭から出てこなくなったりする。<br />
　しかしながら、外部のいかなる制約からも脱し、自律して自分の作品を創りあげるという芸術家のイメージはせいぜい19世紀ぐらいにできたもので、作曲家という職業が出現していらい、注文によらない音楽のほうがずっと少ないのではないだろうか。<br />
　歌手やバンドの名前が少し売れはじめた時期も、事情はやや似ている。ようやく知られるようになった１曲を、連日どこへ行っても歌わされることになるのだが、これもなかなかたいへんなストレスだ。なんらかのかたちで外からのオーダーにしたがって音楽をしている人たちには、多少の差はあれ、同じようなストレスがあり、その解消に多大なエネルギーを費やしているのではないだろうか。あふれるほどの情熱をかたむけて始めた音楽だったはずなのに、限度を超えてそれを強いられるところから、すべてのストレスは生ずる。</p>

<p>　アーリー・ホックシールドという社会学者は、『管理される心』（石川准・室伏亜希訳、世界思想社、2000年）のなかで、感情労働という言葉を使って、現代の労働のある一側面について論述している。彼女が主にケースとしてとりあげたのは、フライトアテンダントの仕事ぶりだ。彼／彼女らは、どのような客にもにこやかな笑顔で接するよう訓練される。彼／彼女らのそのときの気分とはかかわりなく、少なくとも仕事中はつねにそうあらなくてはならない。やがて、もともと表面的な演技であったものが、ほんとうの自分の気分と区別がつかなくなったりするが（これを深層演技という）、これまたきついことなのである。以前、映画のヒットで話題になり、連日マスコミから同じような質問をされ、あるときついに不機嫌そうな表情で「別に」とぼそっと言ったきり黙りこんで話題になった女優がいたが、それは彼女の感情労働が限度を超えてしまったからだろう。その後さんざん非難を浴び、涙の謝罪会見までしなくてはならないはめにまでおちいったのは、彼女が女優やタレントという感情労働者が守るべき就業規定を破ったからにほかならない。<br />
　彼／彼女らの仕事は人のうらやむような好条件であることも多いが、その感情は高い給料とひきかえに商品となり、売り買いされていることになるのである。昔は労働といえばひたすら肉体労働を意味し、マルクスが問題にしたのはたとえば炭坑で寝る時間もろくにとれないような状態で働かされ、体の健康が蝕まれるような状況についてであった。だが現代の労働はもっと複雑で、このような感情労働のために、こころの健康が蝕まれることも憂慮すべき事態になりはじめているのである。<br />
　バッハが教会から注文をうけ、「またオラトリオかよ、たいがいにしろよ、まったくもう」とか、ぶつくさ言いながら書いていたかどうかはわからないし、映画『アマデウス』に描かれたように、モーツァルトが他の仕事より高いギャラでひきうけた《レクイエム》の仕事を納期に間に合わせようと無理をかさねるうちに死んでしまったという話も、ほんとうかどうかわからないにせよ、冒頭にあげた音楽家の例は、どうみてもりっぱな感情労働に属し、しかもフライトアテンダント以上に深刻でさえあるように思える。<br />
　音楽の仕事における感情労働としての側面が強くなっていったのは、もちろん音楽と感情の結びつきが強くなっていくにしたがってのことであろう。19世紀あたりの作曲家がときどきバーンアウトのような症状を呈したのは、「別に」とつぶやいた女優と同様のことなのかもしれない。</p>

<p>　彼ら作曲家への注文にはさまざまなものがあるのだろうが、守らなければならなかったことは、注文主の満足であるのは今も昔も変わらない。モーツァルトやベートーヴェンの作品には、パトロンの侯爵様やその家族の演奏レヴェルに合わせて、パートを書いたりしたものがいくつもある。お嬢様がどう練習しても弾けないようなパートを書いたり、彼らの社交の場にふさわしくないような音楽を書いたりすると、クレームがついたり、次から仕事がこなくなる。このあたり、現代の業界作曲家も様子はさほど変わらない。<br />
　ではその注文主の意向とはなんだろう。昔ならお金をだすのが特定の個人なので、その意向はまだはっきりと注文主個人に帰すことができるようにも思えるが、その貴族のお金はどこからくるのか、貴族は周囲からなにを期待されていたのか、貴族社会ではいかに振る舞うべきか、など、さまざまに無視できない条件がかかわっていることを勘案すると、いかに身分の高い貴族であろうと、それなりに社会に制限されているところは小さくはないことが想像できる。<br />
　では現代ではどうか。前述のホックシールドによれば、それは資本主義社会からの要求であり、その要求はいい換えれば父権的になりたったファミリーの道徳から出発していて、さらに屈曲して、男性中心的な社会のなかでの女性の抑圧という問題にまでたどり着く（フライトアテンダントにかぎらず、感情労働の担い手の多くは女性なのである）。最後のフェミニズム論議については、ホックシールドが拓いた感情社会学のなかでも、賛否両論あるところのようだ。だが、音楽の情動（感情）がどのようになりたってきたかを考えるためには、有効性のある指摘のように私には思える。ファミリーからコミュニティ、そして社会へという構造のなかで感情の社会的管理がなりたつのは、フライトアテンダントの笑顔だけではない。じつは音楽の情動もそうなのである。<br />
　たとえばポピュラー音楽の情動は、それを買う消費者の意向を反映していると通常考えられているが、それは商品としての音楽とその消費という単純な図式のなかでのことである。その消費者の意向はどこから来ているのかについては、あまり議論されていない。あたかもポピュラー音楽は消費者の意向投票によって決まっているかのように論じられることが多いのだが、じつは消費者が反映させたい情動は、社会という管理のフィルターを通過してできあがったものなのである。<br />
　今となっては、わずかの幸福な例外をのぞけば、音楽の情動は資本主義による「世界音楽」という都合のよい管理機構の傘下に管理されており、人びとはそれを買うことによって自分のものにするのであり、さらにその情動が消費者によって濾過され純化され、次に生産される音楽にフィードバックされる。この濾過－フィードバックによって情動はどんどん画一化され、それをリニューアルした音楽の再生産がループのように続く。この過程では、音楽の情動はすでにフライトアテンダントの笑顔のように精選され管理されているので、まちがっても晩年のマーラーのような不健康な情動は混じりこむ隙はなく、咀嚼しやすいファミレスのメニューのように整理され、売られているのである。<br />
　この先には、まださまざまな議論があるだろう。たとえば、ドゥルーズ＝ガタリは『アンチ・オイディプス』で、じつは人間のこころが資本主義によってコントロールされているものであり、それはオイディプス・コンプレックスという、フロイトが画定したファミリーを基底とする人のこころのなりたち方に逆に規定されているという指摘とホックシールドの議論はとうぜん重なっている。</p>]]></description>
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<category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">002反ヒューマニズム音楽論 （若尾裕）</category>


<pubDate>Tue, 25 Aug 2009 14:00:05 +0900</pubDate>
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<item>
<title>第12回　日本戦後音楽史──汎アジア主義というエキゾティズム</title>
<description><![CDATA[<p>　伊福部昭（1914～2006）の《日本狂詩曲》が作曲されたのは1935年であり、同年パリのチェレプニン賞を受賞、翌年にボストン初演された。フランス・ロシア近代音楽を中心としたスコアのみを情報源とし、そこからオーケストラの機能と響きを想像して作曲されたこの作品は、戦前の日本における管弦楽作品を代表する音楽のひとつであり、また戦後1953年に刊行された『管絃楽法』<span class="reference"><a href="#413_01">（註１）</a></span>とともに、日本人作曲家が近代管弦楽というテクノロジーをいかに理解し、マニュアル化したかを示している。</p>
<p><span class="style4">◎オーケストレーションという作曲の技法</span></p>
<p>　《日本狂詩曲》を聴いてみよう。そこでは主題や調的関係による形式といった、統辞的意味としての音楽構造がほぼ不在であり、一定パターンのフレーズの反復が、オーケストレーションのテクステュアの変化と対照性のみで、音楽的実質を生みだしているといってよい。欧米人には、素材の民族的特性よりも、音楽的構造にかんする異質性において、むしろエキゾティックに捉えられたと思われる。<br />
　さらに創作同様に伊福部の代表的な業績である『管絃楽法』は、リムスキー＝コルサコフ以来の、ヴィドール、フォーサイスなど（とりわけ前者）による近代管弦楽法の著作を下敷きにした管弦楽法概論として、きわめて実用的なもので、こんにちにいたるまで戦後日本の作曲家に多大な影響をあたえてきた。音楽的創意はオーケストラのテクノロジーじたいから触発をうけ、ヨーロッパの伝統音楽にみられる音楽的発想と演奏実践としての歴史的管弦楽技法との矛盾に満ちた経緯をいっさい清算したところから創作を開始した時点で、あたかもバロック的な「機械仕掛けの神（デウス・エクス・マキナ）」であるかのように、管弦楽は作曲家に予定調和の恩恵をほどこすのである<span class="reference"><a href="#413_02">（註２）</a></span>。</p>
<p><span class="style4">◎屹立する響きと馴致</span></p>
<p>　松村禎三（1929～2007）の音楽は、師・伊福部の創作理念を受けつぎながら、やがて中国からインドにまでいたるアジア的な発想という、（抽象的な視点ゆえに）とらえどころがないほどの広がりをもち、工芸的ともいえる精緻な作曲法と管弦楽法にもとづく、すぐれて自省的な創作として、戦後日本を代表するものといえる。<br />
　1960年代の現代音楽シーンにおける創造的エネルギーの極点と思える《交響曲》（1965）や《管弦楽のための前奏曲》（1968）に聴かれる、ヨーロッパ的な倍音構造とは異なる、あたかも楽音とノイズと臨界域で生ずる独自の音響像<span class="reference"><a href="#413_03">（註３）</a></span>からは、たしかに松村に多くの影響をあたえたストラヴィンスキー《春の祭典》（1913）における、ヨーロッパ音楽の異化としての先鋭的な構造化と共通するものもうかがわれる。<br />
　《管弦楽のための前奏曲》に聴かれる日本伝統音楽ともつうじる音程の揺れや音律、音価の扱いを模倣する管楽器の扱いは、やがてストラヴィンスキーの書法から暗示をうけたヘテロフォニーという名の擬似ポリフォニーと、オスティナート・ドローンという擬似ホモフォニーへと構造化をとげる。<br />
　いっぽうこの音響的に特化された音楽が、発端がどうであれ、あたかも近代的個の崩壊の過程を演算するかのように形式的発展をたどることから、われわれはいやおうなく、それが戦後日本社会における状況を反映する、あまりに文学的(私小説的)なあり方を示すことに驚くことになる。<br />
　こうして三善晃の音楽にも聴かれるように<span class="reference"><a href="#413_04">（註４）</a></span>、しばしば能や歌舞伎といった伝統芸能を暗示し、またあるときは主情的な文学的ドラマでもある、仮想現実をめぐる演技的空間に、音楽はくりかえし纂奪される。、日本近代という固有の文化が封印された内部と、それらと密接にかかわる音楽表現形式として外部からもたらされた方法論とのあいだに、直接的な関連性をみいだすことはむずかしい。ともあれ表現者がほんらいの技法とはかけ離れたところでおこなう生々しい表出は、ある意味で表現主義的な様相をおびる。こうしたリビドーとしての自己消費型サイクルをもつ創作には、知としての音楽のあり方からとうぜん帰結される、創造原理じたいが内包する、統治としての文化というコードと、人間という不確かなあり方とのあいだで、たがいに侵犯を繰り返すあやうさはない。創造とは、はてしない自己表現の結果というよりは、「世界という構造と向き合う自己」という対になる構造から算出されるのである。</p>
<p><span class="style4">◎汎アジア主義というエキゾティズム</span></p>
<p>　三善晃の《レクイエム》（1971）が、まさに戦中・戦後という日本近代の終焉としての弔いの儀式であるならば、万博以降、1980年代までのグローバリズムは、日本近代をアジア的多様性という視座から定義しなおしたものともいえよう。<br />
　松村禎三のピアノ協奏曲第１番、同第２番は1973、78年に作曲されたが、第１番における鎮魂<span class="reference"><a href="#413_05">（註５）</a></span>としての御詠歌や、民族楽器の響きを模した第２番におけるピアノ書法は、あたかも想像上の汎アジア的なエキゾティズムという異界を、創造という虚構の劇場に移したものだ。<br />
　80年代を代表する作品として知られる西村朗の２台のピアノと管弦楽の《ヘテロフォニー》（1987）も、（かたや昭和後期、かたや平成バブルの予兆という時代意識の差こそあれ）松村の創造の軌跡なくしては生まれなかったであろうすぐれた音楽である。いっぽうでこれらの音楽は、東洋・西洋という従来のコノテーションが、管弦楽的音響の精密なデジタル的変換を介して乱反射した今様オリエント・オリエンテーション（東洋案内）ともいえる。<br />
　また、ふたりの作曲家自身が認めているように、これらの作品に認められる広義のアジア的宗教観念に、祭祀としての創造というアジア的統治にかかわる意識がかいまみられる点には、あらためて興味をおぼえる。<br />
　アジアという記号による無国籍なポップ・カルチャーの隆盛のもと、音楽が生まれる社会構造の基盤としての、歴史的なアジア的統治・文化様式を視野にいれながら、創造におけるあらたな展望は生まれるのであろうか？</p>
<span class="reference"><p>
<a name="413_01"></a>註１　伊福部昭『管絃楽法』（音楽之友社、初版1953）。同書は1968年上巻として改訂され、同時に下巻が刊行、2008年『完本管絃楽法』として新版刊行。<br />
<a name="413_02"></a>註２　ベルリオーズ／シュトラウス『管弦楽法』（小鍛冶邦隆監修、広瀬大介訳、音楽之友社、2006）をみれば、18世紀から20世紀初頭にいたる演奏実践としての管弦楽法の変遷が、歴史的な作曲技法といかに具体的にかかわっているのか理解できるだろう。<br />
　伊福部『管絃楽法』にみられるような、歴史性を捨象した水準で自由に扱えるマトリックスとしての管弦楽法の位置づけは、戦後日本における「前衛音楽」という、そのほんらいの歴史的コンテクストから切り離された便宜的な位置づけと共通しているといえるかもしれない。本連載<a href="./kokaji10.html">第10回「日本戦後日本音楽史──前衛とアカデミズムの逸話（１）」</a>参照。<br />
<a name="413_03"></a>註３　管弦楽の音響構成ほんらいの基礎倍音（完全８度、５度）を完全４度や増４度に置き換え、中・高音域に部分音を密集させて、あたかも非整数倍音によるかのようなノイズ的な音響を生みだす。また頻出するユニゾンも、歴史的にもちいられてきた補色関係の楽器法を避けることで、結果的に倍音原理に収斂されない手法が本能的にもちいられている。<br />
<a name="413_04"></a>註４　本連載<a href="./kokaji11.html">第11回「日本戦後音楽史──前衛とアカデミズムの逸話（２）」</a>参照。<br />
<a name="413_05"></a>註５　松村禎三はピアノ協奏曲第１番の創作時に、くりかえしモーツァルトの《レクイエム》KV626を聴いたと、筆者に語った。</p></span>]]></description>
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<category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">001音楽・知のメモリア （小鍛冶邦隆）</category>


<pubDate>Wed, 12 Aug 2009 14:04:18 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>第11回　日本戦後現代音楽史──前衛とアカデミズムの逸話（２）</title>
<description><![CDATA[<p>　前回の連載では、ヨーロッパの歴史的音楽とはあきらかに異なる、日本の文化制度における統治としての音楽文化の特異性（あるいは不在）についてふれた。とうぜんながら移入文化である「西洋音楽」は、戦時においても、政治的プロパガンダ以上の意味性は獲得されることなく、またそれゆえ実質的な統制の対象ともなるべくもなかったように思える。<br />
　日本の戦後の現代音楽は、その出自を自由に選択できると同時に、同時代のヨーロッパ市民社会の歴史性を映す鏡像としての「前衛」を、あきらかに異なるコンテクストで引用することにより、その「現代性」を容易に獲得したといえよう。あとは発育不全のアカデミズムという、実質性のない領域のイメージを対比的に操作すればことたりた。<br />
　しかしながら歴史的体験としての「戦時」が現実であるかぎり、やがて作曲家の想像力の極性に作用する瞬間もとうぜん訪れるであろう。</p>
<p><span class="style4">◎レクイエム・レクイエム</span></p>
<p>　武満徹と三善晃の《レクイエム》がある。それぞれに異なる時代性（1950年代後半と70年代初頭）に作曲されたこれらの作品については、作曲者自身によって作品の成立と戦時との関係が明らかにされている。<br />
　武満徹の出世作、《弦楽のためのレクイエム》（1957）の場合、想起されるのは、この作品に直接言及していないとしても、「暗い河の流れ」という作曲者自身によるエッセイである。このよく知られたエッセイは、「私にとって音楽がはじめての〈他者〉として現れたのは終戦に近い、一九四五年の夏であった」とはじまり、ジョセフィン・ベーカーのシャンソン《聞かせてよ、愛の言葉を》との邂逅という有名なくだりへとつづく。そして終戦＝敗戦としての戦後という状況（「私たちは、ひとりひとりの暗い河の流れに身をまかせるより他になかったのだ」）のなかで、作曲家としての出発が語られる。<br />
　武満がさらに「1960年、安保の批准成立によって、私の青春は終わった」と書くことにてらせば、《弦楽のためのレクイエム》が映していたものもまた、特定の対象への弔いというよりも戦時と戦後の精神風景としての時代へのまなざしであったのはいうまでもないであろう。<br />
　いっぽう、1971年に作曲された、三善晃の混声合唱とオーケストラのための《レクイエム》について、三善自身が書いた文章には、「あんなにも近く、親しく、私もその隣にいたという意味で平易ですらあった死者たちの死に、地上のどのような希いも祈りも慟哭も届きようがないことをさとるためにしか、私は「レクイエム」の音を書き綴らなかったのだ」（《詩編》（1979）のための作曲者による解説）という一節がある。<br />
　戦争のさなかの身近な死の記憶たちが、四半世紀の刻をへだてて、作曲家の想像力のさなかに、あたかも「私の内部の祭りである」（上記解説）かのように激越で華麗な音響を解きはなつのである。<br />
　武満のエッセイ「暗い河の流れ」が朝日新聞紙上に掲載された1971年、たまたま２人の作曲家の「戦時」とそののちが出会う。「永久（とわ）の死者の平安（レクイエム・エテルナム）」などではなく、レクイエムという喪の葬祭──「レクイエム・レクイエム」として。</p>
<p><span class="style4">◎西方より</span></p>
<p>　ふたたび50年代に戻ろう。<br />
　三善晃はフランス政府給費留学生として、1955年から57年にかけてパリに学ぶ。パリ国立高等音楽院和声クラスのアンリ・シャランのもとでの学習は、幸福なものともいえなかったのだろう。<br />
　「本能的な音楽的創造性と構築性」（矢代秋雄）にめぐまれた作曲家にして、アカデミズムという名のヨーロッパ文化の歴史性からうけた拒絶は、やがて彼の創作の拠点としての文化と歴史性の問題に漂着するであろう。1974年以降、桐朋学園大学学長として教育の分野に活動をひろげ、また多くのアマチュア合唱団との出会いから生まれた豊穣な合唱音楽や、伝習的なピアノ教育に一石を投じようとするMiyoshiピアノ・メソードの開発などの創造的な軌跡のうちにこの作曲家がもとめたものは、プロフェッショナリズムとしての市民的教養主義にもとづく、連帯によるコミュニティへの道程であったのかもしれない。<br />
　1995年に桐朋学園大学学長を辞任したのち三善は、《レクイエム》三部作（1972～84）と対応する、《夏の散乱》以降のオーケストラ四部作（1995～98）をつうじて、一貫して戦争体験にこだわる作曲家という世間的評価のもと、華麗な創造の軌跡を描く。同時に東京文化会館長（1996～2004）として、芸術創造と行政とがせめぎあう場にかかわることで、彼は再度、コミュニティとしての音楽文化という「制度」を生きようとするのである。<br />
　大学の学長として夢見た、音楽専門教育における伝承性（徒弟制度）からの自由と自治<span class="reference"><a href="#412_01">（註１）</a></span>も、市民的連帯による文化創造も、ヨーロッパにおける伝統的な文化的統治につらなる芸術音楽のあり方とは、あきらかに異なるものである。けっきょく、創作技法じたいに内在する知のヒエラルキーとしての、歴史的音楽の実態を超えて、さらなる自由を獲得することはできない。接ぎ木された「自由」は、やがて固有の文化において新たな「制度」を構築するのである。</p>
<p><span class="style4">◎東方から</span></p>
<p>　1970年の万博は、まさに文化資本としての音楽文化の新たな様相を予示したともいえる。三善晃が音楽という旧制度に教育からかかわろうとしたのと同時期に、武満徹は西武劇場のオープニングとして、それ以降20年間におよんでつづくことになる「今日の音楽」（1973～92）のプロデュースをおこなう。パルコに代表される都市文化の記号としての「東京」を仕掛ける複合的商業資本にとって、むしろ伝統的音楽と等価な（あるいは反転としての）現代音楽という構図こそが、より刺激的であったのであろうか。<br />
　武満という、異なる伝統的音楽文化にたいして等しい距離（ディスタンス）<span class="reference"><a href="#412_02">（註２）</a></span>をとりながらアプローチする、自己選択的なアマチュアリズム（消費主体）としての作曲スタイルは、商業資本のあり方とも共振しやすい。そもそも生涯を多数の舞台・映画音楽（商業音楽）の作曲家としても生きたこの作曲家にとり、現代音楽とはその延長線上の創作として、時代と事実上、きわめて共時的な関係を保つ領域なのだ。<br />
　《弦楽のためのレクイエム》のいっけんつたなくみえる初期の書法も、映像におけるカット割りを思わせる構成（形式）や、カメラ・ワークにもなぞらえられる音楽的テクスチュアの濃淡にもとづくものといえよう。これらはたしかに内面的な表現というより、前掲のエッセイにも現れる〈他者〉としての音楽的オブジェとの距離のとり方ともいえる。1980年代以降の豊穣なオーケストラ作品群も、こうした無数のかけがえのない夢の散乱とも思える、音楽的断章（フラグメント）としての高価なオブジェ＝コレクションなのである<span class="reference"><a href="#412_03">（註３）</a></span>。<br />
　武満の音楽には、ヨーロッパの芸術音楽への自由で誤解に満ちたまなざしがある。現代音楽という商品記号は、こうした憧れと、たまさかの所有の夢のうちに、高度資本主義による文化戦略という、新たな統治を生み出す迷宮のネットワークの一端をつむぐのである。</p>
<span class="reference"><p>
<a name="412_01"></a>註１　「三善─学生との精神的なつながりでしょうか。学生を信頼してみようと自分でも思ったし、学生のなかには、あの頃は三善の存在があって、いい時代に出くわしたな、と今、言ってくれる人もいます。<br />
　丘山─つまり学生にとっての「学長」のあり方、関係性、それまでとはまったく違うもので、そこにある一種のシンパシーみたいなものが生まれた、その幸福ですね。<br />
　三善─そう。それまでは、先生と生徒という形式的な関係、位置づけに慣れていたでしょう？　でも、ほんとは学生・生徒たち、とても敏感。そして、「みんなと一緒」というのを感じさせた。前にお話しした女の子の「みんながいたから、私がいた。だから良かった」という、あれね。<br />
　（後略）」（三善晃・丘山万里子共著『波のあわいに　見えないものをめぐる対話』春秋社、2006年、107頁）<br />
<a name="412_02"></a>註２　「むしろこの作曲家特有の「距離（ディスタンス）＝関係」の認識というべきであろう。作品のタイトルとしても用いられる《ディスタンス》は、相反するものの相互の位置関係を見極める装置であり、また多数が「関係」において固有の生を生きる意味でもあるのであろう」（小鍛冶邦隆「ドゥブル・レゾナンス　武満徹のアンサンブル作品をめぐって」『武満徹　音の河のゆくえ』平凡社、2001年、55頁）<br />
<a name="412_03"></a>註３　武満の初期、および1980年代以降の一般的様式については、前掲拙論「ドゥブル・レゾナンス」を参照。
</p></span>]]></description>
<link>http://www.artespublishing.com/serial/archives/kokaji/kokaji11.html</link>
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<category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">001音楽・知のメモリア （小鍛冶邦隆）</category>


<pubDate>Wed, 12 Aug 2009 14:01:21 +0900</pubDate>
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