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   <title>Artes * Web連載</title>
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   <title>第８回　これ以上、音楽を作る必要があるのか？</title>
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   <published>2010-03-11T23:14:45Z</published>
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   <summary>　私は芸術大学の作曲科というところに行ったので、卒業するまで毎年課題作品を提出し...</summary>
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      <![CDATA[　私は芸術大学の作曲科というところに行ったので、卒業するまで毎年課題作品を提出しなければならなかった。作曲にはげんでいるかどうかが、担当の先生とのあいさつがわりの会話だったし、友人とのあいだでも作曲が進んでいるかどうかがよく話題となった。
　にもかかわらず私は、世の中にこんなにたくさんの曲があるのに、私のようなものが新しい曲を書く意味はなんだろう、というじつに素朴な、しかしそれゆえにかえってタブーに近いような自問自答を、心のなかから追いはらうことができなかった。そもそも作曲科に行ったのは、作曲がやりたかったからだろう？──といわれればまあそのとおりだし、いままでにない独創的で新しい音楽を作ることができるとしたら、そこには意味があるだろうということも、もちろん理解してはいたのだが。
　別の話──。あるとき友人の美術家が教えている美術大学を訪ねたときのこと。裏の倉庫のようなところに、おびただしい数の絵が放置してあるのを目にした。学生が提出した作品や、制作したきり持ち帰らなかった作品だという。そのスペースはすでに限界に達しつつあるようだった。しかし、絵は毎年一定量増えてゆく。収まらなくなったらどうするのかとたずねると、適当に焼却処分するのだという。保管の限度を超えた絵は棄てられるわけである。美術品というものは究極的にはゴミなのだと思った。
　世界に画家といわれる人が何人いるのかわからないが、彼らが年間に生産する絵画の量はどれくらいなのだろう？　このままわれわれの世界がずっと続くとするなら、そのうちそれは地球上を覆いつくすほどに増えてしまうのではないだろうか？　身動きがとれなくなるほどに絵でいっぱいになってしまった世界──。それは漫画的な妄想でしかないが、一面の真理もある。つまり、地球上には絵というものが不可逆的に増えつづけていくということである。
　音楽は絵のように場所をとらないので、このような状況はさほど想像しにくいが、ある時代からこっち、地球上の音楽は増えつづけ、どんどん蓄積されてきていることはたしかだ。楽譜であれ、CDのような音源であれ、ディジタル化されることによって、劣化・散逸の危険は飛躍的に減少した。音楽の保存状況にかんしていえば、たった100年前といえども石器時代に等しい。
　バッハの時代には、作品をすえながく残そうという意欲はあまり強くなかったようだ。新作された作品の楽譜でさえ、いちど演奏がすんだら、さほど注意深くはあつかわれなかった。そのようにして、バッハの作品は完全に忘れ去られていった。
　だが、ご存知のように100年ほどへたのち、彼の作品はふたたび注目の対象となりはじめる。いつの時代にもオタクな人々がいるようで、忘れ去られていたバッハの作品の楽譜を収集していたほんのひとにぎりの好事家の私的なコレクションから、まずは復興がはじまった。その後各地でバッハ作品の発掘がはじまる。音楽学という学問は、そういった収集、鑑定、整理のための方法論が必要となったことによって生まれた。こうした書誌学的な研究は、いまでも音楽学のなかの重要な部門といってよいだろう。
　このように多くの努力がはらわれてきたにもかかわらず、いまだにすべてのバッハ作品が、発見され整理されアーカイヴ化されているわけではない。最近でもヨーロッパのどこかで、知られざるバッハ作品が新発見？　といったニュースが耳目を集めることがある。古い教会や貴族の館の物入れから埃にまみれた大作曲家の手稿を発見するのは、いまなお音楽史学者のみるインディー・ジョーンズ的夢のようである。
　こういった過去の作品の発掘と保存は、どうやらバッハ作品復活のころからはじまったようである。それはいうまでもなく、啓蒙思想や歴史意識の発生、さらにはヘーゲル的な──世の中が右肩上がりに進歩するという──世界観と深くかかわる現象である。またここには、西洋芸術音楽をその他の世界の音楽から切り離して特別あつかいするために、合理的な歴史的説明が必要とされたという事情もおおいにかかわっている。金字塔のごとくそびえる西洋芸術音楽が、みずからの成立についての説明を必要とするのは、京都あたりの老舗が室町時代あたりからの店の縁起をまことしやかに吹聴するのとさほど変わらない。
　もうひとつ、作曲というものをささえているのは、芸術家の創作というものにたいする無条件の肯定である。弟子にたいして作曲に専心しているかどうかを問う先生の意識には、芸術家が作品を作りだすことは、（たとえ生まれたものが駄作であろうと）貴重な営為である、という強い信念のようなものがある。この信念と右肩上がりの歴史観は、じつは同じ意識に根をもつものであり、「アジアの街の作曲科」という奇妙な状況にも深く浸透しているのである。
　いまでは少々状況が異なるかもしれないが、私の時代、作曲科の学生が書くべき音楽は、「現代音楽」という社会的にさほど認められていない領域にかぎられていた。ほとんど需要もなく、見返りも悲惨なほどに期待できないジャンルである。にもかかわらず、彼が創作を続ける意義は二つある。ひとつはこの西洋的モダニズムにおける創造というイデオロギーへの信仰にたいして帰依を示すこと。もうひとつは、そんな狭い市場のなかでのわずかなチャンスをものにするため、という現実的な理由である（作りつづけなければわずかなチャンスもめぐってはこない）。
　われわれ作曲の学徒が、人々から見向きもされない新しい音楽を作りだすそのいっぽうで、市場ではバロック音楽や、マーラーやブルックナーの交響曲といった、これまた見向きもされていなかった多くのレパートリーが再開発され、芸術音楽のアーカイヴに組みこまれ、ふくらんでゆく。しかし、データベースがいくら巨大になっても、とりだされ消費される量がそれほど増えるわけではない。消費されるデータ量がかぎられるのは、人々の感性が時代や社会の世界観に制限されるからである。とうぜんながら、時代の流行からもれたものは見捨てられたままに終わる。かりに音楽作品の博物館が作られ、優秀な館員の努力により、完璧なコレクションができあがったとしても、その大部分はとりだされることなく終わるだろう。時代がめぐり、ほんらいの文脈からそうとうに隔たった理解のされかたによって、ふたたびとりだされることになる可能性は──バッハのときのように──もしかしたらあるかもしれないにせよ。
　ここまで書きすすめてきたような西洋モダニズムにたいする醒めた視点は、いまでは多くの場面で散見されるようになった。音楽は進歩しなくてはならず、つねに新製品が開発されなくてはならないという、西洋芸術音楽にたいする18世紀以後のやや強迫的な意識は、どうも終わりはじめているようである。若者たちがポップスの新作にたいしてもつ期待感もだいぶ弱まってきているし、音楽産業は新しい企画よりも、いままでのレパートリーを再利用する消極的なビジネスに終始している。
　人によってはこれを音楽の衰退と考えるかもしれないが、西洋近代の音楽（や芸術）の大きな物語が凋落したことの現れと考えるほうが順当だろう。いま問われるべきなのは、たんなる技法上の可能性のなかでのラディカルさではなく、上記のような物語に頼れなくなった状況において、新しい音楽の姿を考えることである。
　作曲家の近藤譲は、音楽は多面的なものであり、いまだに多くの謎を秘めたものであるがゆえに、その謎への問いを立てるところにこそ作曲という行為の意義があると述べているが、これは西洋近代のイデオロギーのなかのある部分を逆手にとって、もう無用となりつつある作曲にあえて意義をみつけようとする試みに思える。前衛的な芸術は社会から孤立し、その自律性を貫徹することによって、社会にたいする鋭い刃となるという、晩年のアドルノの考えかたとも似ている。大きな物語に依存しない問題提起のありかたとしては、このような姿勢もありうるかもしれない。
　近藤のこのようないいかたは、美学者、A. C. ダントーのいう、それまでは表現の可能性の追求であった美術が、1960年代以後はみずからの存在意義を探すための哲学と化してしまったとする芸術終焉論とおおいに重なる。そう、いまの芸術は芸術自身の“自分探し”になってしまったのである。
　近藤自身はみずからの作品において、音と音の関係性を、それまで存在してきた音楽のエモーションやクリシェから解き放ち、異なるコンテクストでの音どうしが結びつく可能性を探究している。様式という大きな物語に依存することを拒否したその姿勢には、他にはない独自性がある。しかしながら、近藤の主張するように、作曲という行為によって音楽とはなにかを問うことは、ほんとうに可能なのだろうか？
　それが可能であるためには、作曲という行為が、みずからが属する音楽文化からのがれ、外部に立脚することが可能であることが前提であるように、私には思える。なぜなら作曲という行為がその属する文化のルールに埋没しているかぎり、その文化にたいして有効な問いを立てることは困難としか思えないからである。目は自分の目を見ることはできない。
　西洋音楽のその芸術性を成立させてきたのは、ローレンス・クレイマーのいうとおり、美学や評論などその音楽をめぐるディスクールという装置にほかならない。音楽の音響だけではその価値をささえることはできない。西洋音楽は評論されたり論究されたりすることによって、その芸術的価値を維持してきたのである。つまり、近藤のように問いを立てることは、ある意味では昔からおこなわれてきたことともいえる。むしろ一面では伝統的な思想に回収することもできるのである。
　作曲と哲学を同一視しようとする議論は、ヴァッケンローダーやシュレーゲルなどドイツロマン派の時代から多くみられるディスクールである。たとえば、E. T. A. ホフマンはベートーヴェンの第5交響曲論のなかで、音楽が未知の世界を示してくれる可能性について熱っぽく語っている。近藤の主張は、どこかこういったロマン派時代の議論と似かよったものを感じさせる。
　そもそも、作曲とはいくつかの異なる意味が歴史的に重層して、成立してきたものであるはずだ。バッハやハイドンがおこなった作曲とは、場や必要性におうじて音楽を現実化する「アレンジメント」という意味合いが強かった。啓蒙主義時代以後になると、その上に、それまではさほど重要なこととはされていなかった「個性」や「独自性」や「創造性」といった地層が積み重なることになる。しかし、すでに作曲という営為が始められた当初から、自然状態においてなりたつ音楽のありかたを超えて、人為的に音を構築するという、一種不自然な操作が当然視されていたことをみすごしてはならないだろう。いってみれば作曲とは、この人為的かつ不自然な操作のことなのであり、この方法があるときになりたち、その結果として生まれた音響が、人々に受け入れられるようになったために、その後作曲行為は加速化し、多くの曲が作られることになったのである。
　ここで大きな役割をはたしたのは、記譜法というものである。記譜法が作曲をうながしたといってもいい。逆にいえば、そもそも作曲は、記譜法が可能にした音楽の構想と具現化の可能性の範囲を超えることはできないのである。ヴィトゲンシュタインの「言いあらわせないことには口をつぐむしかない」という言葉になぞらえていうなら、記譜できない音楽は作曲できないし、書きあらわせない歌はうたえない。近藤のいう作曲という行為も、もちろんこの限定からのがれることはできまい。「問いを立てる」という哲学に似た作曲行為も、こういった西洋音楽のアート・ワールドのルールにしばられることになり、この限定を超えた謎はあらかじめ排除されていることになる。それゆえ近藤の試みはやはり、新しいテイストをもった音楽を開発するための方法論のひとつ、というあたりにとどまらざるをえないだろう。
　さらにこの議論をつきつめていくと、デリダのいわゆる「差延」という概念をもちだしたくなる。いくら問いを立てたとしても、それは芸術音楽というエクリチュールを反復することにならざるをえないだろう。近藤の音楽には、音の迷宮をさまようような独特のおもしろさがあるのだが、どこか閉じた空間のなかでのゲームのような感じがするのは、それがどこにもたどりつきそうもないデリダ的迷宮を音にリアライズしているからかもしれない（そしてそれはじゅうぶんにおもしろいものなのだが）。
　おそらく作曲という行為は、今後もまだ続いていくだろう。だが、少なくとも新製品の供給という機能はほぼ停止し、東浩紀のいうデータベース消費のひとつに吸いこまれていくだろう。最近のJポップのような音楽様式は、とうの昔から、実体から離れた差延的コピーの繰り返しになっているといえるかもしれない。作曲というものは、近藤の示唆する哲学的な問いというありかたも含めて、ダントーのいうように、王子と王女の波瀾万丈な冒険のはてにくる「それから二人はずっと幸せに暮らしましたとさ」以後の、退屈なホームドラマとしてしかなりたたないのかもしれない。

<p class="reference">［参考文献］<br />
テオドール・W. アドルノ（大久保健治訳）『美の理論』河出書房新社、1985<br />
東浩紀『動物化するポストモダン』講談社、2001<br />
近藤譲『〈音楽〉という謎』春秋社、2004<br />
E. T. A. ホフマン（鈴木潔訳）「ベートーヴェン・第五交響曲」、前川道介編『ドイツ・ロマン派全集第9巻　無限への憧憬』所収、国書刊行会、1984<br />
A. C. Danto, The Philosophical Disenfranchisement of Art, Columbia University Press, 1986.<br />
Lawrence Kramer, Subjectivity Ramapant! Music, Hermeneutics, and History. in The Cultural Study of Music, edited by Martin Clayton et al., Routledge, 2004.</p>]]>
      
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   <title>第７回　パイプダウン</title>
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   <published>2009-08-25T05:24:54Z</published>
   <updated>2010-03-12T06:52:14Z</updated>
   
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      <![CDATA[<p>　イギリスにパイプダウンという団体がある。この団体はパイプト・ミュージック（piped music。公共空間での録音音楽の再生のこと。いわゆるバックグラウンド・ミュージック）の規制をめざす市民団体である（興味のある人は<a href="http://www.pipedown.info/" target="_blank">http://www.pipedown.info/</a>を参照されたい）。賛同者のなかで私の知る名前には、ピアニストのアルフレート・ブレンデルや指揮者のサイモン・ラトル、チェリストのジュリアン・ロイド・ウェッバーなどの名前がある。彼らは、現代社会においてもっとも不愉快な音を発するのは、削岩機でも車でも航空機でもなく、いまや音楽であることをさまざまな調査のデータをあげながら主張し、2000年にはこの団体の代表者のひとりである保守党議員、ロバート・キーが法案の提出を試みている。この法案は人びとが自分で選んで出かけるレストランやスポーツ・クラブなどでのBGMまで規制しようというわけではなく、公共交通や市民プールや病院などにかぎったもので、きわめて穏当な要望といってもよいもので、マスコミの注目を集めたものの、けっきょくはまだ法制化にはいたっていないようだ。<br />　ほかにもこのような指摘や主張をする人は多いにもかかわらず、なかなか実現できないのはなぜだろう。私にはそこに、いまのわれわれの音楽のもつ根本的な問題が潜んでいるようにも思えるのである。</p>
<p>　なぜこのような問題が生じてきたかについて、イギリスの音楽社会学者、サイモン・フリスは、音楽が私的な空間の形成にかかわるものになったためと指摘している。隣の家のパーティでかけられている音楽にいらだたされるのは、それが私的な領域に侵入してくるからである。だが、路上で生で奏でられたり歌われたりする音楽にたいして、いかにそれが技術的にひどいものであろうと、われわれがより寛容でありうるのは、それが社会的なできごとであり、私的空間への侵入の感覚がより薄いからだと彼はいう。この指摘はおおいに意味がある。<br />　『うるさい日本の私』（洋泉社、1996／新潮文庫、1999）を書いた中島義道氏が指摘する「騒音」は、音楽だけにかぎらないが、簡単にいえばこういった私的空間にたいしての、音楽も含めた他者の声の侵入の問題ととらえることができるだろう。したがって、これはたんなる騒音問題ではないのである。ところが、そのような音にかんしての意味論的な認識が薄いため、「騒音」が物理的なエネルギーとその知覚の問題として処理されてきているところに、この問題の解決が大きく立ち遅れている理由があるといえるだろう。</p>
<p>　パイプト・ミュージックといういい方は、電気増幅というテクノロジーを使って、水道の蛇口をひねると水がパイプを通って出てくるように音楽が出てくるシステムのことを意味する。このことから、とうぜん彼らが最初から録音された音楽の再生を問題にしていることはたしかである。しかしながらフリスは、音楽の私的空間化にとって、音楽の録音という技術がひとつの因として作用していることにはあまり注目していないようにみえる。<br />　録音された音楽がなぜ私的空間を作り、さらに他者の空間を侵害するかは、それが私有化されたモノとなったからである。ある場において生（ライヴ）でパフォームされている音楽は、場というものによって成立しているがゆえに社会的な存在であるが、その録音はほんらいのコンテクストから離れ、音響のみがモノ化されたものである。フリードリヒ・キットラーのいい方を借りれば、音というものの波形やファイルという別のメディアへの変換によって起こった、19世紀末に端を発する現象と考えてもよいかもしれない。<br />　この音響はモノ化されているために簡単に持ち運べて、どこでも再生できるようになった。つまり個人のプロパティ（持ちもの）となってしまったのである。アップル社のiPodは音楽の個人をプロパティ化することの現在形のひとつである。音楽がイヤフォンから耳へという個人の空間にとどまるかぎりにおいては、なんの問題も生じない。だが、これが他者に聞こえる音響物となって他者の空間に入りこむなら、空間の侵害がそこに物理的に生じることは、とうぜん考えるまでもない。<br />　さらに、音楽による私的空間の形成の要因として、調性による和声音楽という一般的な音楽に共通する特質もおおいにかかわっていると思われる。録音技術が音響に可搬性をあたえたというだけでは、音楽による私的空間の形成とその侵害という問題についての説明がふじゅうぶんであるように思えるのだ。</p>
<p>　調性による和声音楽が可能としたのは、音楽の音響と情動の対応関係の確立である。長三和音が明るく、短三和音が暗いというような単純なレヴェルだけでなく、調性音楽はさまざまな情動のレパートリーを単純化して整理し、和声技法というかたちでの対応関係を築いていった。音楽社会学者のティア・デノーラは人びとがさまざまな録音音楽を自己の調整のために使っていることを、自己のテクノロジーとよんでいるが、それはそのような調性音楽のもつ情動作用の積極的な利用法である。料理をするときにはラテン音楽がいちばんという主婦や、落ち着くときにはシューベルトの変ト長調の即興曲を使う人や、朝の目覚めを快適にするためにある決められた音楽を使う人など、音楽とその用法になんの対応関係もみいだせないような個人的な音楽の使用のあり方がいまの時代には成立しているのである。ここでは他者との音楽の共有はまったく考えられておらず、ただ音楽が私的な空間の形成に使われているのみである。<br />　そのような私的空間としての他者の音楽音響に、人がそくざに嫌悪感をもつことがあるのは、それが情動言語として意味をもつからである。のんびりとした気分でいるときに、とつぜん明るく快活な音楽が侵入してきたら、それはたんなる音響的ノイズというだけでなく、その音響がさし示すところの情動を強制的にもたらす暴力となりうる。われわれの耳にあまり情動言語的な意味をもたらさない耳慣れない異国の音楽であるならば、音響的な違和感は生じさせても、情動的な嫌悪感はさほど生じさせないだろう。人は自分の空間において自分の気分の自由が奪われるがゆえに、外からの音楽の侵入に気分を害するのである。<br />　逆にいうなら、こういった調性音楽のもたらす作用が、公共の場で人びとを管理するために音楽を使おうとすること──つまり、パイプト・ミュージックのような試みを多く生じさせてきたと考えるべきなのである。すなわち、楽しい音楽は人びとを幸せにするというあの思想である。<br />　反対に、ある場に若者をあまり集まらせないようにするために、意図的にクラシック音楽をかけるという例もあるようだし、若者向けの場所に高齢者が好まないようなノイジーな音楽をかけて彼らを入りにくくすることも、完全に意図的とはいえないにせよ、じっさいには起こっている。ここでは音楽が、自己調整のテクノロジーを裏返しにした、排除のテクノロジーとして使われていることになる。こういった排除のテクノロジーとしての音楽は、ラジオ放送の普及以後、国家や民族という規模にまで拡大され、近年のバルカン紛争においては一種の戦争のような様相<span class="reference"><a href="#wakao07_01">（註１）</a></span>さえ呈するようになる。<br />　さらには、緊急事態にあって人びとを安全に避難誘導するためにはどのような音楽を使えばよいかということや、植物や動物に音楽を聴かせたりしてその生産効率を研究することについて説く人が現れたりする。ここから、大多数の人びとにどういった音楽を聴かせれば健康が促進されうるか、という研究まではあと一歩である。現行の音楽療法というものに、ある一定の人びとが根本的な不信感をいだくのは、こういった発想が見え隠れするからにちがいない。<br />　私としては、このような素朴な社会工学の道具として音楽が研究されることじたいに、恐れ以上のものを感じているのであるが、同時にこんなことをしてもけっして成果はあがらないであろうことも予測している。こういった発想は、さきほど指摘したモノ化した音楽と、それをたんなる音の刺激として受けとる人間という関係性を前提にしているが、これは欧米という限定された地域において、ある特定の時代に成立した音楽のイデオロギーにすぎないからである。したがって、ある文化圏におけるある時代の流行としてという限定つきであれば、ありうることかもしれないと、うんざりしながらもそれに同意してもよい。</p>
<p>　パイプダウンが問題にしているのは、公共空間におけるモノ化した音楽であるが、もうひとつの公共空間である公共放送における音楽の使用については、誰も問題視していないようにみえるのは不思議なことである。テレビを観ていて、音楽が入りこまない時間はいったい全体の何パーセントだろう？　意識してみると、驚くほど多量の音楽が使用されていることがわかるだろう。テレビ・ドラマに音楽が使われるのは演出の一部であり、ドラマの成立の根幹にかかわるものであると考えるなら、これは制作者の意図であるわけだから、その音楽の使用に辟易としているよりもいっそ観なければよいという考え方もなりたつかもしれない（日本のように、多くの人にとってテレビを観ることが習慣化している社会では、そのように片づけてよい問題とも思えないのだが）。<br />　それでは、ニュースのような場合ではどうだろうか？　9.11の事件の映像にたいして、イギリスのITN（Independent Television News。イギリスのテレビ番組制作会社のひとつ）がグノーの《審判官》という深刻な音楽を付けたことを、英国放送委員会が不適切と指摘したそうだが、たしかにこういった報道において、なんらかの音楽で情動の方向づけをすることには問題があるだろう。ITN側は、音楽の選択はこの事件の深刻さと葬送的気分にじゅうぶん配慮したものであると主張しているが、言葉もなくあの映像を観ている人にとっては、そのような情動教育的配慮はこころよいものではないだろう。<br />　わが国の放送においては、さまざまなお茶の間的映像にお茶の間的音楽が付加され、お茶の間的疑似公共空間が形成されることが日常的である。たとえば満開の桜を紹介する映像にどのような音楽を挿入するかは、完全に番組制作者にまかされている。上記の9.11のシーンに付けられた音楽は不適切と判断されたが、では何をもって適切と判断されるのだろうか？<br />　最終的には番組の制作者が決めることになるのだが、かといって彼／彼女がそれを勝手に決めてしまえるわけではない。担当者は、自分も含めて視聴者が適切と判断するであろう音楽を選ぶことになる。<br />　では、そもそも満開の桜とそれに対応する情動状態は誰が作るものなのか？　人びとが作るのだろうか？　社会が作るのだろうか？　もちろん、それが人びとのある合意のうえになりたつことはたしかだが、逆に、ここには人びとのなかに内面化された自己規制とモラルが働いていることも考慮に入れなければならない。ミシェル・フーコーのいう管理と監視のパノプティコン（一望監視システム）のようなシステムが発動しているのである。かくしてお茶の間的映像にお茶の間的音楽が付けられ、人びとは自己規制的なお茶の間的情動を味わうことになる。<br />　パイプダウンのような団体も含め、多くの背景音楽にたいして問題を指摘している人びとも、放送における音楽の使用についてはなんの問題も提起していないことに、私は不思議さをおぼえる。私は放送における音楽の濫用についても、ある一定の法的規制が必要だと感じている。少なくとも、ドラマなどのように表現意図が明確である場合をのぞき、表現の主体が明確でない放送時間における音楽使用を制限することを求めるのは穏当な要求だと考えている。<br />　そして、私がもっと懸念するのは、じつは音楽の世界全体がこのような自己規制的お茶の間化してしまっているのではないかということなのである。</p>

<p class="reference">
<a name="wakao07_01"></a>［註］<br />
　セルビア、ボスニア＝ヘルツェゴビナ、クロアチアなどの共同体が、それぞれ自分たちの民謡をポップ化したもの（ターボ＝フォークと呼ばれる）を放送で殺伐とぶつけあうような状態。</p>
<p class="reference">［参考文献］<br />
　DeNora, Tia: Music in Everyday Life, Cambridge University Press, 2000.<br />
　Frith, Simon: Music and Everyday Life. pp.92-101 in The Cultural Study of Music, Edited by Martin Clayton, Trevor Herbert and Richard Middleton, Routledge, 2003.<br />
　フリードリヒ・キットラー（石光泰夫ほか訳）：『グラモフォン・フィルム・タイプライター（上・下）』ちくま学芸文庫、2006</p>]]>
      
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   <title>第６回　感情労働としての音楽</title>
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   <published>2009-08-25T05:00:05Z</published>
   <updated>2009-08-25T05:02:35Z</updated>
   
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      <![CDATA[<p>　こんにち、世界に作曲家とよばれる人が何人いるかはわからないが、そのなかで、自分が作りたい音楽だけを作っている人はごく一部だろう。ほとんどの作曲家はなんらかのかたちで注文を受けて音楽を作っている。注文のある仕事をひきうけないとしたら、教職など他の仕事をするか、ジョン・ケージのように清貧に暮らすしかない。<br />
　この、注文による作曲も、ときたまのことなら、他の仕事のあいまの息抜きていどにとどまるかもしれないが、放送業界においてのように、大量の音楽を一時期に作りあげることになると、これはかなりたいへんなことだ。このような場では多くの場合、調性と三和音を使ったもの──つまり普通の音楽──が要求されるので、同じような音符を同じように並べなければならない仕事がえんえんと続く。必死に音符やメロディを絞り出す努力のすえ、最後にはもう１音符たりとも頭から出てこなくなったりする。<br />
　しかしながら、外部のいかなる制約からも脱し、自律して自分の作品を創りあげるという芸術家のイメージはせいぜい19世紀ぐらいにできたもので、作曲家という職業が出現していらい、注文によらない音楽のほうがずっと少ないのではないだろうか。<br />
　歌手やバンドの名前が少し売れはじめた時期も、事情はやや似ている。ようやく知られるようになった１曲を、連日どこへ行っても歌わされることになるのだが、これもなかなかたいへんなストレスだ。なんらかのかたちで外からのオーダーにしたがって音楽をしている人たちには、多少の差はあれ、同じようなストレスがあり、その解消に多大なエネルギーを費やしているのではないだろうか。あふれるほどの情熱をかたむけて始めた音楽だったはずなのに、限度を超えてそれを強いられるところから、すべてのストレスは生ずる。</p>

<p>　アーリー・ホックシールドという社会学者は、『管理される心』（石川准・室伏亜希訳、世界思想社、2000年）のなかで、感情労働という言葉を使って、現代の労働のある一側面について論述している。彼女が主にケースとしてとりあげたのは、フライトアテンダントの仕事ぶりだ。彼／彼女らは、どのような客にもにこやかな笑顔で接するよう訓練される。彼／彼女らのそのときの気分とはかかわりなく、少なくとも仕事中はつねにそうあらなくてはならない。やがて、もともと表面的な演技であったものが、ほんとうの自分の気分と区別がつかなくなったりするが（これを深層演技という）、これまたきついことなのである。以前、映画のヒットで話題になり、連日マスコミから同じような質問をされ、あるときついに不機嫌そうな表情で「別に」とぼそっと言ったきり黙りこんで話題になった女優がいたが、それは彼女の感情労働が限度を超えてしまったからだろう。その後さんざん非難を浴び、涙の謝罪会見までしなくてはならないはめにまでおちいったのは、彼女が女優やタレントという感情労働者が守るべき就業規定を破ったからにほかならない。<br />
　彼／彼女らの仕事は人のうらやむような好条件であることも多いが、その感情は高い給料とひきかえに商品となり、売り買いされていることになるのである。昔は労働といえばひたすら肉体労働を意味し、マルクスが問題にしたのはたとえば炭坑で寝る時間もろくにとれないような状態で働かされ、体の健康が蝕まれるような状況についてであった。だが現代の労働はもっと複雑で、このような感情労働のために、こころの健康が蝕まれることも憂慮すべき事態になりはじめているのである。<br />
　バッハが教会から注文をうけ、「またオラトリオかよ、たいがいにしろよ、まったくもう」とか、ぶつくさ言いながら書いていたかどうかはわからないし、映画『アマデウス』に描かれたように、モーツァルトが他の仕事より高いギャラでひきうけた《レクイエム》の仕事を納期に間に合わせようと無理をかさねるうちに死んでしまったという話も、ほんとうかどうかわからないにせよ、冒頭にあげた音楽家の例は、どうみてもりっぱな感情労働に属し、しかもフライトアテンダント以上に深刻でさえあるように思える。<br />
　音楽の仕事における感情労働としての側面が強くなっていったのは、もちろん音楽と感情の結びつきが強くなっていくにしたがってのことであろう。19世紀あたりの作曲家がときどきバーンアウトのような症状を呈したのは、「別に」とつぶやいた女優と同様のことなのかもしれない。</p>

<p>　彼ら作曲家への注文にはさまざまなものがあるのだろうが、守らなければならなかったことは、注文主の満足であるのは今も昔も変わらない。モーツァルトやベートーヴェンの作品には、パトロンの侯爵様やその家族の演奏レヴェルに合わせて、パートを書いたりしたものがいくつもある。お嬢様がどう練習しても弾けないようなパートを書いたり、彼らの社交の場にふさわしくないような音楽を書いたりすると、クレームがついたり、次から仕事がこなくなる。このあたり、現代の業界作曲家も様子はさほど変わらない。<br />
　ではその注文主の意向とはなんだろう。昔ならお金をだすのが特定の個人なので、その意向はまだはっきりと注文主個人に帰すことができるようにも思えるが、その貴族のお金はどこからくるのか、貴族は周囲からなにを期待されていたのか、貴族社会ではいかに振る舞うべきか、など、さまざまに無視できない条件がかかわっていることを勘案すると、いかに身分の高い貴族であろうと、それなりに社会に制限されているところは小さくはないことが想像できる。<br />
　では現代ではどうか。前述のホックシールドによれば、それは資本主義社会からの要求であり、その要求はいい換えれば父権的になりたったファミリーの道徳から出発していて、さらに屈曲して、男性中心的な社会のなかでの女性の抑圧という問題にまでたどり着く（フライトアテンダントにかぎらず、感情労働の担い手の多くは女性なのである）。最後のフェミニズム論議については、ホックシールドが拓いた感情社会学のなかでも、賛否両論あるところのようだ。だが、音楽の情動（感情）がどのようになりたってきたかを考えるためには、有効性のある指摘のように私には思える。ファミリーからコミュニティ、そして社会へという構造のなかで感情の社会的管理がなりたつのは、フライトアテンダントの笑顔だけではない。じつは音楽の情動もそうなのである。<br />
　たとえばポピュラー音楽の情動は、それを買う消費者の意向を反映していると通常考えられているが、それは商品としての音楽とその消費という単純な図式のなかでのことである。その消費者の意向はどこから来ているのかについては、あまり議論されていない。あたかもポピュラー音楽は消費者の意向投票によって決まっているかのように論じられることが多いのだが、じつは消費者が反映させたい情動は、社会という管理のフィルターを通過してできあがったものなのである。<br />
　今となっては、わずかの幸福な例外をのぞけば、音楽の情動は資本主義による「世界音楽」という都合のよい管理機構の傘下に管理されており、人びとはそれを買うことによって自分のものにするのであり、さらにその情動が消費者によって濾過され純化され、次に生産される音楽にフィードバックされる。この濾過－フィードバックによって情動はどんどん画一化され、それをリニューアルした音楽の再生産がループのように続く。この過程では、音楽の情動はすでにフライトアテンダントの笑顔のように精選され管理されているので、まちがっても晩年のマーラーのような不健康な情動は混じりこむ隙はなく、咀嚼しやすいファミレスのメニューのように整理され、売られているのである。<br />
　この先には、まださまざまな議論があるだろう。たとえば、ドゥルーズ＝ガタリは『アンチ・オイディプス』で、じつは人間のこころが資本主義によってコントロールされているものであり、それはオイディプス・コンプレックスという、フロイトが画定したファミリーを基底とする人のこころのなりたち方に逆に規定されているという指摘とホックシールドの議論はとうぜん重なっている。</p>]]>
      
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   <title>第12回　日本戦後音楽史──汎アジア主義というエキゾティズム</title>
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   <published>2009-08-12T05:04:18Z</published>
   <updated>2009-08-18T01:38:33Z</updated>
   
   <summary>　伊福部昭（1914～2006）の《日本狂詩曲》が作曲されたのは1935年であり...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p>　伊福部昭（1914～2006）の《日本狂詩曲》が作曲されたのは1935年であり、同年パリのチェレプニン賞を受賞、翌年にボストン初演された。フランス・ロシア近代音楽を中心としたスコアのみを情報源とし、そこからオーケストラの機能と響きを想像して作曲されたこの作品は、戦前の日本における管弦楽作品を代表する音楽のひとつであり、また戦後1953年に刊行された『管絃楽法』<span class="reference"><a href="#413_01">（註１）</a></span>とともに、日本人作曲家が近代管弦楽というテクノロジーをいかに理解し、マニュアル化したかを示している。</p>
<p><span class="style4">◎オーケストレーションという作曲の技法</span></p>
<p>　《日本狂詩曲》を聴いてみよう。そこでは主題や調的関係による形式といった、統辞的意味としての音楽構造がほぼ不在であり、一定パターンのフレーズの反復が、オーケストレーションのテクステュアの変化と対照性のみで、音楽的実質を生みだしているといってよい。欧米人には、素材の民族的特性よりも、音楽的構造にかんする異質性において、むしろエキゾティックに捉えられたと思われる。<br />
　さらに創作同様に伊福部の代表的な業績である『管絃楽法』は、リムスキー＝コルサコフ以来の、ヴィドール、フォーサイスなど（とりわけ前者）による近代管弦楽法の著作を下敷きにした管弦楽法概論として、きわめて実用的なもので、こんにちにいたるまで戦後日本の作曲家に多大な影響をあたえてきた。音楽的創意はオーケストラのテクノロジーじたいから触発をうけ、ヨーロッパの伝統音楽にみられる音楽的発想と演奏実践としての歴史的管弦楽技法との矛盾に満ちた経緯をいっさい清算したところから創作を開始した時点で、あたかもバロック的な「機械仕掛けの神（デウス・エクス・マキナ）」であるかのように、管弦楽は作曲家に予定調和の恩恵をほどこすのである<span class="reference"><a href="#413_02">（註２）</a></span>。</p>
<p><span class="style4">◎屹立する響きと馴致</span></p>
<p>　松村禎三（1929～2007）の音楽は、師・伊福部の創作理念を受けつぎながら、やがて中国からインドにまでいたるアジア的な発想という、（抽象的な視点ゆえに）とらえどころがないほどの広がりをもち、工芸的ともいえる精緻な作曲法と管弦楽法にもとづく、すぐれて自省的な創作として、戦後日本を代表するものといえる。<br />
　1960年代の現代音楽シーンにおける創造的エネルギーの極点と思える《交響曲》（1965）や《管弦楽のための前奏曲》（1968）に聴かれる、ヨーロッパ的な倍音構造とは異なる、あたかも楽音とノイズと臨界域で生ずる独自の音響像<span class="reference"><a href="#413_03">（註３）</a></span>からは、たしかに松村に多くの影響をあたえたストラヴィンスキー《春の祭典》（1913）における、ヨーロッパ音楽の異化としての先鋭的な構造化と共通するものもうかがわれる。<br />
　《管弦楽のための前奏曲》に聴かれる日本伝統音楽ともつうじる音程の揺れや音律、音価の扱いを模倣する管楽器の扱いは、やがてストラヴィンスキーの書法から暗示をうけたヘテロフォニーという名の擬似ポリフォニーと、オスティナート・ドローンという擬似ホモフォニーへと構造化をとげる。<br />
　いっぽうこの音響的に特化された音楽が、発端がどうであれ、あたかも近代的個の崩壊の過程を演算するかのように形式的発展をたどることから、われわれはいやおうなく、それが戦後日本社会における状況を反映する、あまりに文学的(私小説的)なあり方を示すことに驚くことになる。<br />
　こうして三善晃の音楽にも聴かれるように<span class="reference"><a href="#413_04">（註４）</a></span>、しばしば能や歌舞伎といった伝統芸能を暗示し、またあるときは主情的な文学的ドラマでもある、仮想現実をめぐる演技的空間に、音楽はくりかえし纂奪される。、日本近代という固有の文化が封印された内部と、それらと密接にかかわる音楽表現形式として外部からもたらされた方法論とのあいだに、直接的な関連性をみいだすことはむずかしい。ともあれ表現者がほんらいの技法とはかけ離れたところでおこなう生々しい表出は、ある意味で表現主義的な様相をおびる。こうしたリビドーとしての自己消費型サイクルをもつ創作には、知としての音楽のあり方からとうぜん帰結される、創造原理じたいが内包する、統治としての文化というコードと、人間という不確かなあり方とのあいだで、たがいに侵犯を繰り返すあやうさはない。創造とは、はてしない自己表現の結果というよりは、「世界という構造と向き合う自己」という対になる構造から算出されるのである。</p>
<p><span class="style4">◎汎アジア主義というエキゾティズム</span></p>
<p>　三善晃の《レクイエム》（1971）が、まさに戦中・戦後という日本近代の終焉としての弔いの儀式であるならば、万博以降、1980年代までのグローバリズムは、日本近代をアジア的多様性という視座から定義しなおしたものともいえよう。<br />
　松村禎三のピアノ協奏曲第１番、同第２番は1973、78年に作曲されたが、第１番における鎮魂<span class="reference"><a href="#413_05">（註５）</a></span>としての御詠歌や、民族楽器の響きを模した第２番におけるピアノ書法は、あたかも想像上の汎アジア的なエキゾティズムという異界を、創造という虚構の劇場に移したものだ。<br />
　80年代を代表する作品として知られる西村朗の２台のピアノと管弦楽の《ヘテロフォニー》（1987）も、（かたや昭和後期、かたや平成バブルの予兆という時代意識の差こそあれ）松村の創造の軌跡なくしては生まれなかったであろうすぐれた音楽である。いっぽうでこれらの音楽は、東洋・西洋という従来のコノテーションが、管弦楽的音響の精密なデジタル的変換を介して乱反射した今様オリエント・オリエンテーション（東洋案内）ともいえる。<br />
　また、ふたりの作曲家自身が認めているように、これらの作品に認められる広義のアジア的宗教観念に、祭祀としての創造というアジア的統治にかかわる意識がかいまみられる点には、あらためて興味をおぼえる。<br />
　アジアという記号による無国籍なポップ・カルチャーの隆盛のもと、音楽が生まれる社会構造の基盤としての、歴史的なアジア的統治・文化様式を視野にいれながら、創造におけるあらたな展望は生まれるのであろうか？</p>
<span class="reference"><p>
<a name="413_01"></a>註１　伊福部昭『管絃楽法』（音楽之友社、初版1953）。同書は1968年上巻として改訂され、同時に下巻が刊行、2008年『完本管絃楽法』として新版刊行。<br />
<a name="413_02"></a>註２　ベルリオーズ／シュトラウス『管弦楽法』（小鍛冶邦隆監修、広瀬大介訳、音楽之友社、2006）をみれば、18世紀から20世紀初頭にいたる演奏実践としての管弦楽法の変遷が、歴史的な作曲技法といかに具体的にかかわっているのか理解できるだろう。<br />
　伊福部『管絃楽法』にみられるような、歴史性を捨象した水準で自由に扱えるマトリックスとしての管弦楽法の位置づけは、戦後日本における「前衛音楽」という、そのほんらいの歴史的コンテクストから切り離された便宜的な位置づけと共通しているといえるかもしれない。本連載<a href="./kokaji10.html">第10回「日本戦後日本音楽史──前衛とアカデミズムの逸話（１）」</a>参照。<br />
<a name="413_03"></a>註３　管弦楽の音響構成ほんらいの基礎倍音（完全８度、５度）を完全４度や増４度に置き換え、中・高音域に部分音を密集させて、あたかも非整数倍音によるかのようなノイズ的な音響を生みだす。また頻出するユニゾンも、歴史的にもちいられてきた補色関係の楽器法を避けることで、結果的に倍音原理に収斂されない手法が本能的にもちいられている。<br />
<a name="413_04"></a>註４　本連載<a href="./kokaji11.html">第11回「日本戦後音楽史──前衛とアカデミズムの逸話（２）」</a>参照。<br />
<a name="413_05"></a>註５　松村禎三はピアノ協奏曲第１番の創作時に、くりかえしモーツァルトの《レクイエム》KV626を聴いたと、筆者に語った。</p></span>]]>
      
   </content>
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   <title>第11回　日本戦後現代音楽史──前衛とアカデミズムの逸話（２）</title>
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   <id>tag:www.artespublishing.com,2009:/main/serial//3.412</id>
   
   <published>2009-08-12T05:01:21Z</published>
   <updated>2009-08-12T05:03:38Z</updated>
   
   <summary>　前回の連載では、ヨーロッパの歴史的音楽とはあきらかに異なる、日本の文化制度にお...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p>　前回の連載では、ヨーロッパの歴史的音楽とはあきらかに異なる、日本の文化制度における統治としての音楽文化の特異性（あるいは不在）についてふれた。とうぜんながら移入文化である「西洋音楽」は、戦時においても、政治的プロパガンダ以上の意味性は獲得されることなく、またそれゆえ実質的な統制の対象ともなるべくもなかったように思える。<br />
　日本の戦後の現代音楽は、その出自を自由に選択できると同時に、同時代のヨーロッパ市民社会の歴史性を映す鏡像としての「前衛」を、あきらかに異なるコンテクストで引用することにより、その「現代性」を容易に獲得したといえよう。あとは発育不全のアカデミズムという、実質性のない領域のイメージを対比的に操作すればことたりた。<br />
　しかしながら歴史的体験としての「戦時」が現実であるかぎり、やがて作曲家の想像力の極性に作用する瞬間もとうぜん訪れるであろう。</p>
<p><span class="style4">◎レクイエム・レクイエム</span></p>
<p>　武満徹と三善晃の《レクイエム》がある。それぞれに異なる時代性（1950年代後半と70年代初頭）に作曲されたこれらの作品については、作曲者自身によって作品の成立と戦時との関係が明らかにされている。<br />
　武満徹の出世作、《弦楽のためのレクイエム》（1957）の場合、想起されるのは、この作品に直接言及していないとしても、「暗い河の流れ」という作曲者自身によるエッセイである。このよく知られたエッセイは、「私にとって音楽がはじめての〈他者〉として現れたのは終戦に近い、一九四五年の夏であった」とはじまり、ジョセフィン・ベーカーのシャンソン《聞かせてよ、愛の言葉を》との邂逅という有名なくだりへとつづく。そして終戦＝敗戦としての戦後という状況（「私たちは、ひとりひとりの暗い河の流れに身をまかせるより他になかったのだ」）のなかで、作曲家としての出発が語られる。<br />
　武満がさらに「1960年、安保の批准成立によって、私の青春は終わった」と書くことにてらせば、《弦楽のためのレクイエム》が映していたものもまた、特定の対象への弔いというよりも戦時と戦後の精神風景としての時代へのまなざしであったのはいうまでもないであろう。<br />
　いっぽう、1971年に作曲された、三善晃の混声合唱とオーケストラのための《レクイエム》について、三善自身が書いた文章には、「あんなにも近く、親しく、私もその隣にいたという意味で平易ですらあった死者たちの死に、地上のどのような希いも祈りも慟哭も届きようがないことをさとるためにしか、私は「レクイエム」の音を書き綴らなかったのだ」（《詩編》（1979）のための作曲者による解説）という一節がある。<br />
　戦争のさなかの身近な死の記憶たちが、四半世紀の刻をへだてて、作曲家の想像力のさなかに、あたかも「私の内部の祭りである」（上記解説）かのように激越で華麗な音響を解きはなつのである。<br />
　武満のエッセイ「暗い河の流れ」が朝日新聞紙上に掲載された1971年、たまたま２人の作曲家の「戦時」とそののちが出会う。「永久（とわ）の死者の平安（レクイエム・エテルナム）」などではなく、レクイエムという喪の葬祭──「レクイエム・レクイエム」として。</p>
<p><span class="style4">◎西方より</span></p>
<p>　ふたたび50年代に戻ろう。<br />
　三善晃はフランス政府給費留学生として、1955年から57年にかけてパリに学ぶ。パリ国立高等音楽院和声クラスのアンリ・シャランのもとでの学習は、幸福なものともいえなかったのだろう。<br />
　「本能的な音楽的創造性と構築性」（矢代秋雄）にめぐまれた作曲家にして、アカデミズムという名のヨーロッパ文化の歴史性からうけた拒絶は、やがて彼の創作の拠点としての文化と歴史性の問題に漂着するであろう。1974年以降、桐朋学園大学学長として教育の分野に活動をひろげ、また多くのアマチュア合唱団との出会いから生まれた豊穣な合唱音楽や、伝習的なピアノ教育に一石を投じようとするMiyoshiピアノ・メソードの開発などの創造的な軌跡のうちにこの作曲家がもとめたものは、プロフェッショナリズムとしての市民的教養主義にもとづく、連帯によるコミュニティへの道程であったのかもしれない。<br />
　1995年に桐朋学園大学学長を辞任したのち三善は、《レクイエム》三部作（1972～84）と対応する、《夏の散乱》以降のオーケストラ四部作（1995～98）をつうじて、一貫して戦争体験にこだわる作曲家という世間的評価のもと、華麗な創造の軌跡を描く。同時に東京文化会館長（1996～2004）として、芸術創造と行政とがせめぎあう場にかかわることで、彼は再度、コミュニティとしての音楽文化という「制度」を生きようとするのである。<br />
　大学の学長として夢見た、音楽専門教育における伝承性（徒弟制度）からの自由と自治<span class="reference"><a href="#412_01">（註１）</a></span>も、市民的連帯による文化創造も、ヨーロッパにおける伝統的な文化的統治につらなる芸術音楽のあり方とは、あきらかに異なるものである。けっきょく、創作技法じたいに内在する知のヒエラルキーとしての、歴史的音楽の実態を超えて、さらなる自由を獲得することはできない。接ぎ木された「自由」は、やがて固有の文化において新たな「制度」を構築するのである。</p>
<p><span class="style4">◎東方から</span></p>
<p>　1970年の万博は、まさに文化資本としての音楽文化の新たな様相を予示したともいえる。三善晃が音楽という旧制度に教育からかかわろうとしたのと同時期に、武満徹は西武劇場のオープニングとして、それ以降20年間におよんでつづくことになる「今日の音楽」（1973～92）のプロデュースをおこなう。パルコに代表される都市文化の記号としての「東京」を仕掛ける複合的商業資本にとって、むしろ伝統的音楽と等価な（あるいは反転としての）現代音楽という構図こそが、より刺激的であったのであろうか。<br />
　武満という、異なる伝統的音楽文化にたいして等しい距離（ディスタンス）<span class="reference"><a href="#412_02">（註２）</a></span>をとりながらアプローチする、自己選択的なアマチュアリズム（消費主体）としての作曲スタイルは、商業資本のあり方とも共振しやすい。そもそも生涯を多数の舞台・映画音楽（商業音楽）の作曲家としても生きたこの作曲家にとり、現代音楽とはその延長線上の創作として、時代と事実上、きわめて共時的な関係を保つ領域なのだ。<br />
　《弦楽のためのレクイエム》のいっけんつたなくみえる初期の書法も、映像におけるカット割りを思わせる構成（形式）や、カメラ・ワークにもなぞらえられる音楽的テクスチュアの濃淡にもとづくものといえよう。これらはたしかに内面的な表現というより、前掲のエッセイにも現れる〈他者〉としての音楽的オブジェとの距離のとり方ともいえる。1980年代以降の豊穣なオーケストラ作品群も、こうした無数のかけがえのない夢の散乱とも思える、音楽的断章（フラグメント）としての高価なオブジェ＝コレクションなのである<span class="reference"><a href="#412_03">（註３）</a></span>。<br />
　武満の音楽には、ヨーロッパの芸術音楽への自由で誤解に満ちたまなざしがある。現代音楽という商品記号は、こうした憧れと、たまさかの所有の夢のうちに、高度資本主義による文化戦略という、新たな統治を生み出す迷宮のネットワークの一端をつむぐのである。</p>
<span class="reference"><p>
<a name="412_01"></a>註１　「三善─学生との精神的なつながりでしょうか。学生を信頼してみようと自分でも思ったし、学生のなかには、あの頃は三善の存在があって、いい時代に出くわしたな、と今、言ってくれる人もいます。<br />
　丘山─つまり学生にとっての「学長」のあり方、関係性、それまでとはまったく違うもので、そこにある一種のシンパシーみたいなものが生まれた、その幸福ですね。<br />
　三善─そう。それまでは、先生と生徒という形式的な関係、位置づけに慣れていたでしょう？　でも、ほんとは学生・生徒たち、とても敏感。そして、「みんなと一緒」というのを感じさせた。前にお話しした女の子の「みんながいたから、私がいた。だから良かった」という、あれね。<br />
　（後略）」（三善晃・丘山万里子共著『波のあわいに　見えないものをめぐる対話』春秋社、2006年、107頁）<br />
<a name="412_02"></a>註２　「むしろこの作曲家特有の「距離（ディスタンス）＝関係」の認識というべきであろう。作品のタイトルとしても用いられる《ディスタンス》は、相反するものの相互の位置関係を見極める装置であり、また多数が「関係」において固有の生を生きる意味でもあるのであろう」（小鍛冶邦隆「ドゥブル・レゾナンス　武満徹のアンサンブル作品をめぐって」『武満徹　音の河のゆくえ』平凡社、2001年、55頁）<br />
<a name="412_03"></a>註３　武満の初期、および1980年代以降の一般的様式については、前掲拙論「ドゥブル・レゾナンス」を参照。
</p></span>]]>
      
   </content>
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   <title>【２】アルタン《レッド・クロウ》1990</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.artespublishing.com/serial/archives/oshima/oshima02.html" />
   <id>tag:www.artespublishing.com,2009:/main/serial//3.411</id>
   
   <published>2009-08-12T03:16:38Z</published>
   <updated>2009-08-18T02:23:47Z</updated>
   
   <summary> 　《レッド・クロウ》は衝撃でした。当時国内盤を出していたレコード会社の担当者か...</summary>
   <author>
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         <category term="003ケルト音楽名盤再訪 （おおしまゆたか）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p><img src="./img/redcrow.jpg" alt="アルタン《レッド・クロウ》" /></p>
<p>　《レッド・クロウ》は衝撃でした。当時国内盤を出していたレコード会社の担当者から一足先に聞いてみてくれと送られてきたＣＤをかけはじめたとたん、椅子からとびあがりました。とてもじっとすわっていられなかったのです。</p>
<p>　それまで聞いたこともない新鮮で、ダイナミックで、美しい音楽に、ただただ有頂天になりました。これは凄い、凄いよ、やったね、と最後まで聞きおわらないうちに担当者に電話をかけていました。新しい時代が始まった予感がありました。こういうものが出てきたのは、風が変わっている。いや、新しい風が吹きはじめたのだ。これはプランクシティでもボシィ・バンドでもない。チーフテンズとは対極だ。なにかまったく別のもの、オルタナ・アイリッシュ・ミュージックとでもいいたいもの。</p>
<p>　およそ表現をなりわいとする者にとって、独自の「声」をつかむことは、まず何より大切なことではあります。やや極端に言えば、独自の声をつかめるまでは、表現者は「コピー」の域を脱することができません。</p>
<p>　《レッド・クロウ》でアルタンは自分たちの声を掴みとったのです。その声で奏でられるみずみずしく、溌剌として躍動する音楽に、筆者ははじきとばされたのでした。アルバムの出来栄えということでは《アイランド・エンジェル》（1993）を頂点とし、《ハーヴェスト・ストーム》（1992）がこれに続くという意見に、筆者も同意します。しかし、声を掴んだ手応えに昂揚するバンドの反応は、《レッド・クロウ》に独得の輝きを与えています。例えていえば、わが国の代表チームがサッカー・ワールド・カップ本大会への初出場を決めた「ジョホールバル」の試合が持つ輝きに似ています。</p>
<div align="center">＊</div>
<p>　アルタンの中心メンバーであるフランキィ・ケネディ＆ マレード・ニ・ムィニーは、1983年に《CEOL ADUAIDH（北の調べ）》を出してデビューしています。これは、ある人が「ラブラブな音楽」と評した通り、二人のパーソナルな音楽です。ジャケットの写真に象徴されるごとく、ここでは二人はおたがいに向けて演奏しています。だからこそそこに聞かれる音楽は新鮮であったわけですが、バンドとして外に向けて放たれたものではありません。</p>
<p>　4年後のセカンド《アルタン》では姿勢は百八十度変わっています。ジャケットの写真で二人は外を向いています。ここではドニゴールの共同体の外のリスナーに音楽が放出されています。デビュー作がいわば「青春の記念」であったのに対し、セカンドははっきりと自分たちの伝統音楽演奏を世に問うていました。</p>
<p>　デビュー作ではうたはすべてアイルランド語の無伴奏でした。セカンドでは伴奏を付け、アイルランド語と英語の詞を交互にうたうこともしています。このやり方はアイルランドの伝統にあるもので、「マカロニック」と呼ばれます。</p>
<p>　そして何よりもドーナル・ラニィをプロデューサーに迎えたこと。プロデューサーとしてのかれの手法はミュージシャンの資質にできるかぎり添うものである一方、全体のベクトルとしては伝統音楽を伝統とは縁遠い現代人の耳にいかに魅力的に聞かせるかに腐心します。その点ではパディ・モローニと同じです。違うのはパディが音色の多彩さに傾くのに対し、ドーナルは楽曲にそなわるダイナミズムを引き立たせるところです。</p>
<p>　ドーナルは例によってすぐれた手腕を発揮して、このアルバムを「外部」にとっても魅力的なものにしています。が、あくまでもフランキィとマレードの二人のアルバムとしてです。すでにメンバーはそろっているものの、まだ名づけられていないバンドの気配はごく薄い。</p>
<p>　2年後の《ホース・ウィズ・ア・ハート》で、バンドとしてアルタンの名が掲げられました。これまでの4人のメンバーにポール・オショーネシィが加わり、ツイン・フィドルになります。プロデュースはフィル・カニンガム。スコットランドきってのピアノ・アコーディオンの名手。アコーディオンを持たせると常軌を逸する人ですが、プロデューサー、共演者としては出しゃばらず、ドーナル以上にミュージシャンの資質を尊重するタイプです。</p>
<p>　《ホース・ウィズ・ア・ハート》は良いアルバムではありますが、アルタンの存在を明確に印象づけるまでにはいきませんでした。1980年代後半、アイリッシュ・ミュージックはようやく前半の低迷から脱出しようとしていました。アルタンのような新人が現れはじめ、ベテランたちも再び動きだしています。国外では「ワールド・ミュージック」ブームによって解き放たれた世界音楽が沸騰を続けていました。</p>
<p>　そしてもう一つ。1989年から1990年にかけて、新譜のリリースがＬＰからＣＤへと一斉に切り替わりました。ある日を境に新譜がすべてＣＤになった。実際にはそんなことがあったはずはありませんが、そういう印象が残っています。アルタンにあっても《ホース・ウィズ・ア・ハート》は当初ＬＰとしてリリースされた最後のアルバムです。</p>
<p>　音楽界は騒然としていました。その中で注目されるには、良いだけではまだ足りません。この時期にあっては、むしろ1983年のデビュー作の鮮烈な印象が尾を引いていました。《レッド・クロウ》はそこに登場し、アルタンの音楽の独自性を強烈にうたいあげて、バンドとしてのアルタンの存在をあざやかに浮きあがらせたのでした。</p>
<div align="center">＊</div>
<p>　バンドとしての出発に際してフィドルを加えたのは思いきった判断でした。マレード一人ではデュオとしてはともかくバンド・アンサンブルの中ではいささか弱い、ありていに言えば音量が不足。それを補強すると同時に、ドニゴールの楽器としてはまず何よりもフィドルであることを前面に出すことにもなりました。</p>
<p>　フィドルが複数になる形はスコットランドからシェトランド、さらにはスカンディナヴィアに多いものです。ドニゴールはアイルランド北端に位置し、南の国内よりも、文化的にも社会的にもスコットランドとより強く深く結びついています。むしろ北海文化圏の南端がアイルランド島北部に食いこんでいる、と見たほうがよい。</p>
<p>　おもしろいことに、多数重なってもフィドルの響きは太くなりません。ノルウェイの数十本のフィドルの重なりでも、その響きはどこまでもさわやかです。アルタンのアンサンブルも太くはなりません。この点が、同じユニゾンでもボシィ・バンドとは違うところです。ボシィ・バンドにあってユニゾンするのはフィドル、パイプ、フルートという、音色も音域も異なる楽器です。ユニゾンの「幅」が広いのです。太い筆の一筆描き。ボシィ・バンドのアンサンブルの時として暴走する野性はそこから生まれています。</p>
<p>　ドニゴールにはジグ、リール、ホーンパイプなどとならんで、ハイランズ、ジャーマンズなど、独得の楽曲群があります。こうした楽曲はそれまで注目されたことはありませんでした。いや、その存在さえ、ドニゴール以外ではほとんど知られていませんでした。ボシィ・バンドもクラナドもドニゴールが音楽的故郷ですが、どちらもこうした独得のレパートリィを演奏することはありませんでした。</p>
<p>　アルタンのおかげでわれわれのみならず、ドニゴール以外のアイルランド伝統音楽家たちも、あらためてドニゴール特有のレパートリィのおもしろさに目覚めます。今では、こうした楽曲群はコンテストでの定番の演奏曲目にまでなっているそうです。</p>
<p>　初めて聞く、エキゾティックなチューンの、細くて濃い線によるユニゾン。暴走するおそれのない、均整のとれた音楽。アルタンの基本形はこうまとめられますが、レパートリィはマレード＆フランキィのデビュー作からすでに出ていますし、バンドの形にしても《ホース》で基本はできています。では《レッド・クロウ》はどこが違うのか。</p>
<p>　《ホース》までは楽器はそれぞれ独立して聞こえます。《ホース》では２本のフィドルは左右に分かれ、フルートが中央に位置しています。ギターとブズーキが全体を両側からはさみこむ。</p>
<p>　《レッド・クロウ》ではフィドルが中央に並びます。フルートはそのすぐ脇についています。フロントでユニゾンを奏でる楽器がぐっと寄っているのです。独立して聞こえていた楽器同士を分けていた隙間がなくなりました。楽器の響きが重なり、個々の楽器が同じメロディを奏でるというよりも、ひとつのメロディを複数の楽器が分かち合う、真の意味での「合奏」になっています。それまでは一本ずつの線が別々に立っていたのが、ここでは集中して並んでいます。アルタン独自の声とは、この細く濃い線の集中だったのです。</p>
<p>　アルタン自身の演奏やレパートリィが変わったのではありません。変わったのは録音としてどう聴いてもらうかのヴィジョンです。実際の変化はごくわずかです。離れていた楽器がくっついた、それだけの違いで、聴き手が受けとる音楽はがらりと変わってしまったのでした。蛹が蝶になるような、恒星が超新星になるような、モノクロがフル・カラーになるような、つまりおよそ次元が異なる音楽に、それはなっていたのでした。</p>
<p>　ここは録音というメディアのおもしろさであり、また怖さです。ライヴでは良くも悪しくも、ミュージシャンの生地が否応なく現われます。録音ではごく一部の組立てを変えただけで、音楽の本質がまったく位相を変えるのです。</p>
<p>　もっとも《レッド・クロウ》の組み立てはライヴでの演奏により近いものだったはずです。当時のライヴを見ることはできませんでしたが、来日時のステージと基本は変わっていないでしょう。この形によってユニゾン・パワーが全開された時、アルタンの録音は無敵になったのでした。以後、最新作にいたるまで、少くともインストゥルメンタルの録音に関するかぎり、組立ては変わっていません。</p>
<p>　それだけではありません。この組立ては、ことユニゾンの扱いに関するかぎり、その後のアイリッシュ・ミュージックの録音の標準となってゆきます。その先には『リバーダンス』のあの集団によるユニゾン・タップがある、というのは我田引水でありましょう。ですが、アルタンによってユニゾンの持つ力を録音の上で解放する手法が開発された結果、今度はユニゾンの力そのものがあらためて注目されたことは、感じとれます。ダーヴィッシュをはじめ後に続くバンドは、ユニゾンをいかに効果的に際立たせるかをモチーフとしてアンサンブルを組み立てるようになります。</p>
<div align="center">＊</div>
<p>　《レッド・クロウ》のプロデューサーはＰ・Ｊ・カーティス。次の《ハーヴェスト・ストーム》も同じです。前任者とちがって、カーティスの本業がミュージシャンではないことも、この組立ての変化には、ひょっとすると関わっていたかもしれません。《レッド・クロウ》と《ハーヴェスト・ストーム》で、 1990年と1992年の NAIRD (North American Independent Record Distributors) の最優秀レコード・プロデューサー賞を受賞しました。</p>
<p>　《ハーヴェスト・ストーム》ではキアラン・トゥーリッシュが入ってトリプル・フィドルとなります。ケイリ・バンドを除いて、こんな編成はアイリッシュ・ミュージックでは空前で、おそらく絶後でしょう。そしてこんなスピードで演奏するケイリ・バンドはありません。《アイランド・エンジェル》でポール・オショーネシィが脱けると、ダーモット・バーンのアコーディオンとニール・マーティンのチェロを加えます。ユニゾン担当楽器の一層の重層化でした。</p>
<p>　《ハーヴェスト・ストーム》はトリプル・フィドルの威力十分で、これはもう頂点だと確信したものでした。こんなものを作ってしまって、これからどうするのだろう。そんなことさえ、思うほどでした。この時にはフランキィの病が公になってもいました。ですから《アイランド・エンジェル》が現われたときには、心底脱帽したものです。アイルランドのどんなバンドでも、これをしのぐものはおろか、肩をならべられるものも作れまい。アルタンこそは No. 1。</p>
<p>　そしてアルタンの「三段跳び」に引っぱられるように、アイリッシュ・ミュージックは爆発しました。アルタンの同世代、かれらよりさらに若い世代、そしてベテランが、まるで「せーの」でタイミングを合わせたように、いっせいに活発に活動しはじめたのです。シャロン・シャノンのデビュー作が 1991年。ダーヴィッシュとキーラとニーヴ・パースンズのデビュー作が1992年。ディアンタのデビューが1993年。1992年にはまた例えばマット・モロイ、ショーン・キーン、リアム・オ・フリンの３人が《THE FIRE AFLAME》を出しています。そしてアンディ・アーヴァイン＆デイヴィ・スピラーンの《EAST WIND》も1992年です。</p>
<p>　アルタンは時代の転換点に現われて、状況を一変させました。もとよりアルタンがすべて独力でなしとげたことではありません。ですが、アルタンが強力無比の触媒兼推進剤になったことは確かです。アイリッシュ・ミュージックの現代化がプランクシティ～ボシィ・バンドによって始まったとすれば、20年後それを一つの完成形に昇華したのがアルタンでした。あれからすでに20年。アルタンの「次」ははたしてどこかに現われているのでしょうか。</p>]]>
      
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   <title>【１】ヴァン・モリスン＆チーフテンズ　《アイリッシュ・ハートビート》1988</title>
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   <published>2009-08-12T02:53:37Z</published>
   <updated>2009-08-18T02:23:33Z</updated>
   
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         <category term="003ケルト音楽名盤再訪 （おおしまゆたか）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p><img src="./img/irishheartbeat.jpg" alt="ヴァン・モリスン＆チフテンズ《アイリッシュ・ハートビート》" /><p>

<p>　このアルバムをリリースと同時におそるおそる聞いたとき、まず浮かんだのは、そんなに悪くないじゃないか、でした。不安のどん底での最悪の予想からはずっとマシなものに聞こえたのです。ジャケットでも、知名度において比較にならないほど大きなヴァン・モリスン一人が目立つこともありません。かれはロック・スターというよりは、むしろ、チーフテンズのメンバーの一人に見えます。まるで近所のオジサンたちという風情です。とはいうものの、諸手を挙げて傑作だと快哉を叫べるほどのものとも思えませんでした。</p>
<p>　あまりにも耳タコの定番のうたをならべた選曲、リズム＆ブルースやジャズをベースにしたヴァン・モリスンのシンギング・スタイル、それにベースやドラムスが入ったバックの編成。</p>
<p>　こうした要素はそれまでアイリッシュ・ミュージックに多少とも親しんでいた耳には、ひどく場違いに響きました。他ではまず味わえない斬新な試みを喜ぶ心と、なじんだ暗黙の了解を踏みにじられたことを哀しみ怒る心が同居していました。</p>
<p>　今ではこのアルバムは愛聴盤の一枚ですが、告白すればこの二律背反の想いはいまだに消えてはいません。聞きかえす度に、どこかおちつかない気分になります。ひょっとするとこのおちつかないところ、二律背反の想いを引きおこすところが、このアルバムの魅力の源泉かもしれません。</p>
<p>　例えば〈ラグラン・ロード〉です。適切なテンポをとるのが、なかなか難しい曲です。それがどうでしょう。感興の赴くまま、詞の一節を繰り返すヴァン・モリスン。メロディを自由に展開して即興でうたうヴァン・モリスン。フレーズごとに発声を変えるヴァン・モリスン。思う存分うたいまくると「おうるらい」とバンドを促すヴァン・モリスン。</p>
<p>　これはまさに絶好調のヴァン・モリスン以外の何ものでもありません。このうたは無数の人がうたっていますが、ここでのヴァン・モリスンの歌唱は文句なくベストです。</p>
<p>　ところがアイリッシュ・ミュージックから見た場合、このヴァン・モリスンは、アイリッシュ・ミュージックの「掟」を残らず破っています。こんなうたい方はありえない、ぶち壊しだ、とアイリッシュ・ミュージック・ファンは頭を抱えてしまったのです。</p>
<p>　ヴァン・モリスンはリズム＆ブルースやジャズ、ソウルなど、ブラック・ミュージックを自分の伝統として身につけ、うたっています。その伝統ではうたい手がうたの化身となり、うたの感情をまといます。聞き手はうたい手が表にあらわす感情に共鳴します。聞き手が受けとる感情は、うたい手の表現するものに巻きこまれ統合されます。</p>
<p>　アイリッシュ・ミュージックではうたい手はうたを通す筒です。アイリッシュ・ミュージックにとっての理想のうたい手は透明な声だけの存在です。うたの感情は聞き手の心の中に入ってから点火されます。聞き手の心の中にもともとある、共鳴する要素に火が点きます。聞き手が受けとる感情は、各自の内に秘められ、表に出ることはあまりありません。これに慣れた耳には、ヴァン・モリスンのうたはシンガーの存在が強烈すぎたのでした。</p>
<p>　そこでアイリッシュ・ミュージック・ファンは、自分のなかの矛盾に悩むことになりました。これはいったい何だ。アイリッシュ・ミュージックか。ヴァン・モリスン・ミュージックか。こんなうたい方があっていいのか。こんなドラムスやベースがあっていいのか。こんなリズム処理はチーフテンズ本来のものでもなければ、アイリッシュ・ミュージックのものでもない。でも、このうたは、音楽は、すばらしいじゃないか。これをいったいどう聞けばいいのだ。</p>
<p>　そういう矛盾をなんとか解けないかと、もう一度聞くことになります。一度や二度聞いたくらいで解ける矛盾ではありません。というよりも、聞くほどに矛盾はますます存在感を強くしてゆきます。ついには相反する気持を味わうこと自体が快く感じられる、そんな気にさえなります。ヴァン・モリスンのうたはそれほどにすばらしい。だからまた聞く。それを繰り返しているうちに、ある日、ふと気がつきます。</p>
<p>　アイリッシュ・ミュージックのルール？　掟？　そういうものはほんとうにあるのか。あるとしても、誰かが警察となって、違反者を取り締まってるわけじゃない。そうではなく、アイリッシュ・ミュージックのルールや掟は、それを担う人間一人ひとりが参加して決ってゆくものだ。ここに全身全霊でうたうシンガーがいて、そのうたが圧倒的な説得力で迫ってくる。アイリッシュ・ミュージックかどうかという前に、この音楽は最高だ。これをアイリッシュ・ミュージックと呼ぶ人がいるならば、それはそれでいいじゃないか。</p>
<p>　こうして、このアルバムは、アイリッシュ・ミュージック・ファンが自ら閉じこもっていた蛸壷から、ファン自身を解放する役割も果たしたのでした。むしろ、アイリッシュ・ミュージック・ファンは、籠もっていた蛸壷がこのアルバムの衝撃で木端微塵にされたときに、初めて自分が蛸壷に籠もっていたことに気がついたのです。</p>
<p>　こんにちこのアルバムはヴァン・モリスンにとってもチーフテンズにとっても傑作とされています。ヴァン・モリスンとチーフテンズの共演をあやしむ人もいません。けれども20年前の発表当時、チーフテンズのファンつまりアイリッシュ・ミュージックのファンがこの組合せに抱いた不安の大きさは、思いおこすだに異様なほどのものでした。両者を知るほどに、それぞれの音楽を愛するほどに、不安は大きくなりました。その二つが組んだ衝撃を何に喩えましょうか。マドンナがニューヨーク・フィルと共演してブロードウエイ・ミュージカルのスタンダードをうたう、というのはどうでしょう。いや、その方がまだ可能性は大きそうです。</p>
<p>　いったいチーフテンズとヴァン・モリスンが一緒になって、何をやるのだ。ヴァン・モリスンはロック歌手だ。のはずだ。が、チーフテンズがチーフテンズである以上、フェアポート・コンヴェンションやムーヴィング・ハーツにはなりえない。ヴァン・モリスンがアイリッシュ・ミュージックをうたうのか。まさか〈アーサー・マクブライド〉なんかやってるんじゃないだろうな。確かにポール・ブレディを乗りこえられるシンガーがいるとすれば、ヴァン・モリスンしかいるまい。</p>
<p>　それともチーフテンズが４ビートを刻み、ブルースを奏でるのか。想像しただけで世界が軋み、時空に亀裂が入るのが感じられる。</p>
<p>　ヴァン・モリスンのファンにとって不安はなかったにしても、不審な想いは否定できなかったでしょう。このチーフテンズというのは何者だ。新しいバック・バンドか。しかし、ヴァンは自分のバック・バンドに名前をつけても、アルバム名義に入れたことはない。「＆」は本来対等な関係を表す。ヴァンに対等な扱いを受けているのはなぜだ。</p>

<p>　え、トラッド？　アイリッシュ・ミュージック？　なに、それ？　そりゃ、ヴァンはアイルランド出身だけどさ。じゃ、チーフテンズというのもアイルランドのバンドなの？　で、何やってるの？　カントリーかい。ブルーグラスに近いものか。じゃあ、今回は純アコーティック・アルバムなのかな。〈アンプラグド〉がブームになるにはまだ早すぎるよ。ここんとこ、ヴァンもなんか調子悪いからなあ、そんな得体の知れない連中と組むとなると、ひょっとするとほんとうにヤキがまわっちまったのかねえ。</p>
<p>　そう、ヴァン・モリスンがこれに先立つ時期に絶好調であったなら、このアルバムが生まれなかった可能性は小さくありません。ヴァン・モリスンはチーフテンズと組むことによって、シンガーとしての魂をつかみなおしました。これにつづく《アヴァロン・サンセット》以後の四部作に漲るエネルギーは、 80年代のヴァン・モリスンには望むべくもありません。</p>
<p>　ではなぜ彼はチーフテンズと組んで、アイリッシュ・ミュージックに「起死回生」を賭けたのか。そこには、折から盛りあがるワールド・ミュージック、すなわちユッスー・ンドゥールやサリフ・ケイタに代表されるシンガーたちの台頭が底流となっていたにちがいないとする見方に、ぼくはこのアルバムを聞きかえすたびに、ふかくうなずきます。</p>
<p>　そしてチーフテンズはこのアルバムによってブレイクしました。世間はチーフテンズの音楽がアイリッシュ・ミュージックだと信じました。実をいえば、このこともこのアルバムを聴く時の想いが複雑になる理由の一つです。なぜならチーフテンズがアイリッシュ・ミュージックのバンドだとしても、アイリッシュ・ミュージックはたった一つのバンドで代表できるような単純なものでも小さなものでもないからです。パディ・モローニはすべて自分の手柄のように言いたがりますが、それはアイルランド人独特のホラ吹きの現れでもあります。</p>
<p>　ただ、このアルバムを企画した時のパディ・モローニが危機感に駆られていたことは確かです。1980年代のアイリッシュ・ミュージックは低迷していました。有力な新人も現れず、ベテランたちもどちらへむかえばよいのか、わからなくなっていました。経済の悪化でアメリカに移住するミュージシャンも相次ぎました。おかげで一時アメリカでアイリッシュ・ミュージックが大いに盛りあがったほどです。</p>
<p>　チーフテンズ自身、行きづまってもいました。このアルバムを作る前に、チーフテンズは中国に行き、地元のミュージシャンたちも巻きこんで《IN CHINA》のアルバムを作っていますが、これも閉塞状態を打開しようとする試みの一つです。ヴァン・モリスンと組むことは、チーフテンズにとっても清水の舞台から飛びおりる覚悟が必要でした。ドラムスとベースの採用にあらわれているように、それまでのチーフテンズのスタイルを捨てることでもあったからです。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。チーフテンズはこの時、他の誰もがなしえなかったことをやってのけました。そして突破口を開いたのです。</p>
<p>　ここにアイリッシュ・ミュージックをめぐる環境は一変しました。学生時代にはぼくがアイリッシュだ、スコティッシュだと騒ぐのを鼻で笑っていた友人が、このアルバムが出てしばらくして、「チーフテンズっていいねえ」とのたまわったものです。</p>
<p>　そしてその変化に呼応するように、これを魁として、「ケルティック・タイガー」と呼ばれたアイルランドの経済成長をバックに、エンヤ、『リバーダンス』、映画『タイタニック』などのヒットを推進剤として、アイリッシュ・ミュージックは世界音楽の中に地歩を固めてゆくことになります。</p>
<p>　アイリッシュ・ミュージックの内部においても、新しい動きは始まっていました。蓄えられたエネルギーが吹きだそうと蠢きはじめていました。そのひとつは北からの風でした。アイルランド北部のドニゴールは、それまで「忘れられた」地域でした。アイリッシュ・ミュージックの中心地の一つとされている今では信じられないかもしれませんが、これもまたこのアルバムから始まる変化の一つです。</p>
<p>　そのドニゴール出身のフィドラー兼シンガー、マレード・ニ・ムィニーとベルファスト出身のフルーティスト、フランキィ・ケネディがプロとして出発したアルバム《アルタン》を発表するのは、このアルバムの前年。このアルバムをはさんだ２年後《ホース・ウイズ・ア・ハート》をリリースして、新たなバンド、アルタンは奇蹟の三段跳びへの助走を開始します。</p>]]>
      
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   <title>第５回　楽しい音楽</title>
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   <published>2009-08-12T02:13:36Z</published>
   <updated>2009-08-12T02:14:28Z</updated>
   
   <summary>　西洋音楽という管理化された音楽から生じたもののひとつが、「楽しい音楽」という思...</summary>
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         <category term="002反ヒューマニズム音楽論 （若尾裕）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p>　西洋音楽という管理化された音楽から生じたもののひとつが、「楽しい音楽」という思想である。人は音楽を好んでおこなうが、それをすべて「楽しい音楽」とよぶのはどうみても適当ではない。だが、誰にとっても「楽しい音楽」というものが、ほんとうにあるかのごとく語られ、「長調でリズム的に軽快な音楽」として類型化されたりしている。<br />
　初期の音楽心理学では、こういった音楽と情動のつながりを一種普遍化してとらえ、「人は長調で軽快なリズムを、明るく楽しいと感じる」といった説に定式化する傾向があった。もちろんそれは西洋音楽が普遍的であるとする世界観におおいに依っているのであるが、楽しい音楽の思想がなりたったのちに、その影響下で音楽心理学が発展したからでもある（さすがに最近ではそういった傾向への反省から、スキーマ理論などを援用して、音楽の情動も、繰り返して刷りこまれることによってなりたつという見解にかたむいてきているのだが）。<br />
　言葉の問題もあるのかもしれない。私にとっては「音楽をすることは楽しい」と言葉にできるのだが、それは一般的に悲しい音楽といわれている音楽（たとえば葬送行進曲）を弾くときでも楽しい、ということだ。この場合の「楽しい」は、興味がある、刺激的である、おもしろい、という意味に近い。明るく、高揚した気分をさす「楽しい」と、よく混同されて使われる。「楽しい音楽」というときの意味はいうまでもなく後者のほうである。<br />
　また、どんな音楽にも喜怒哀楽の指標があてはまるわけではない。たとえば、バリ島のケチャは楽しい音楽なのだろうか、それとも悲しい音楽なのだろうかと考えても、それは無意味な問いである。バリ島人に訊いても質問の意味からしてわからないにちがいない。もちろん、バリ島のケチャには、前述したような刺激的、おもしろいという意味での楽しさはあるが、後者の意味はあるように思えない。<br />
　ならば「楽しい音楽」は、西洋音楽に特有のものということになる。では昔からこの思想があったのかというと、少なくともグレゴリオ聖歌などの旋法音楽では、楽しいか悲しいかを問うてもあまり意味はなさそうである。音楽で楽しさ、悲しさの表現を意識するようになったのは、平均律と三和音が使われるようになったもう少しあとのことのようだ。<br />
　そして、いつしか「楽しい音楽」は、動物行動学でいうようなリリーサー（自動的に固有の反応を引き起こす信号刺激）のように人にはたらき、人を明るく楽しく幸せな気分にするという信仰のようなものができあがった。ここから出現したのはミューザックやBGMのような、チアフルな音楽群である。こういった音楽ジャンルや考え方はいまではやや廃れ、初期に考えられたような工場などでの生産性向上のための音楽再生はほぼなされなくなったものの、「楽しい音楽」はいかなる人も楽しくさせる、という思想だけはそのまま残り、街を歩くとこのたぐいの音楽を無差別に浴びせかけられることとなる。<br />
　もちろんこういった現象に対し、サウンドスケープ論のような批判的立場が生まれ、それがあるていど認められてはきている。ただ、マリー・シェイファーのサウンドスケープ論の問題点は、ものごとをあまりにも単純に音響と人間のかかわりでとらえすぎているところだ。都市の音環境が劣化したのは、現代人の耳が劣化したから（だけ）ではない。もっとも重要なことは、音文化の中心的位置にある音楽にかんする感性が変化したことだ。<br />
　この「楽しい音楽」思想が現代社会の音楽状況全体に大きく影響力をもってしまい、音楽教育や音楽療法の土台にも忍びこんでしまっていることは、驚くほど見過ごされているのだが、これについては、また別に論じることにしたい。<br />
　「楽しい音楽」の思想と、クラシック音楽とポピュラー音楽という対立項の発生は並行している。クラシック音楽にはじつは辛気くさい音楽も多くあり、それを一括して「楽しい音楽」というには無理があるからである。そこからポピュラー音楽＝快楽、クラシック音楽＝教養という対立項のようなものがあらわれはじめ、さらにそこから大衆性－芸術性という対立の図式が成立する。アドルノ以後、現在の音楽状況は多くこの二項対立のなかで語られるようになり、この解決こそが現代の音楽文化の課題としばしば考えられるようになった。ものわかりのよいクラシック音楽の啓蒙的活動や、逆に芸術性を意識したと思われるやや高級そうなポップスなどが試みられるようになるのだが、このいずれもが「楽しい音楽」思想から生じているものだ。<br />
　こういったときに音楽家が使うのが、音楽はむずかしいものではない、虚心に聴けば誰でもわかるものである、音楽を愛することは人生を豊かにする等々の言説であるが、これこそまさにこの連載で問題にしようとしている音楽ヒューマニズムという思想の核心と密に接したものだ。アドルノのように、音楽にはむずかしくレヴェルの高いものもあり、その理解には一定以上の修行やトレーニングを要するなどといえば、すぐさまエリート主義的と批判されることになるが、少なくともアドルノは正直であることはまちがいない。しかしこのような態度は、大衆性－芸術性の二項対立の解消という時代の大命題（つまり「楽しい音楽」という管理思想のヴァリエーション）に逆らうことになるので、社会的には反逆者かすね者と位置づけられよう。音楽の世界で生活をするには、とにかく現存の音楽を肯定する態度を示し、いまの音楽文化に課された生政治的管理性に従順さを示す必要があるということである。アドルノは批判の哲学をつらぬきとおしたので、学者としてはともかく、ジャーナリズムにおいては成功しなかった。音楽業界があのような辛気くさい評論をのぞまないのは、守るべきコードが存在するからにほかならない。<br />
　たとえば、吉田秀和のような評論家が、演奏家や作曲家たち以上に、かくも大きな影響力をもつにいたった経緯は、19世紀半ばから始まったドイツ教養主義を起点とするものだろう。そこでは、以前にとりあげたクレイマーの指摘のように、西洋芸術音楽は音としてのみではなく、そこに付加された言葉（情動の意味するもの）と一体化して成立するものになっていった。やがて付加されるディスクールが音以上の重要度をもちはじめると、そのディスクールを作りあげ、更新する立場が必要になる。それが音楽評論である。<br />
　あるときは多数派のぬるま湯的状況に鋭い批判を投げかけ、必要な場合は果敢にもなまいきな若僧作曲家を擁護したりもするが、じつはこのようなディスクールの重層化によって実現されていったのは、音楽についての隠された規制コードであり、その重要なもののひとつが大衆性－芸術性にかかわるコードなのである。<br />
　重要なことは、この対立が19世紀後半から西洋音楽に生じはじめた矛盾から始まったということである。それは芸術音楽と大衆音楽の分離の顕在化という、ちょっとやっかいな現象である。なぜならこの断層は、芸術音楽のめざしてきた音楽の自律性や絶対音楽という一神教化した音楽思想にとって、きわめて都合のわるいものだからだ。ここに生じてきたのが、大衆性－芸術性の対立の克服という、いっけん弁証法のような体裁をまとった新たな課題なのである。だが、考えてみればわかるように、これは近代西洋芸術音楽がその出発点から抱えこんできた根深い問題であり、個々の音楽家のいかなる努力によっても解消できるものではない。にもかかわらず、この問題を音楽家の側にひたすら押しつけているのは、西洋芸術音楽の勝手な都合によるものとしかいいようがない。さらに注意すべきことは、この二項対立こそが西洋近代音楽というイデオロギーを延命させるためのひとつの安全装置としてはたらいていることである。音楽家やその他の人びとが、この２項を結ぶ線上で踊っているあいだは少なくとも、西洋芸術音楽というイデオロギーは細々とながら生きながらえることができるというわけだ。<br />
　すでにこういった状況に倦怠する、ある意味で健康な感性は多く育ちつつあるようだ。課題を見あやまってはならない。必要なことは、大衆性－芸術性の対立の解決などではなく、そのまやかしの二項対立からいかに脱出するかなのだ。</p>]]>
      
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   <title>第４回　ノイズ、ブルース、生政治</title>
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   <id>tag:www.artespublishing.com,2009:/main/serial//3.407</id>
   
   <published>2009-08-12T02:08:51Z</published>
   <updated>2009-08-12T02:12:55Z</updated>
   
   <summary>　人類史のなかで、音楽がどのように始まったかは定かではないが、その始まりには混然...</summary>
   <author>
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         <category term="002反ヒューマニズム音楽論 （若尾裕）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p>　人類史のなかで、音楽がどのように始まったかは定かではないが、その始まりには混然たるノイズから明瞭な差異のある音への志向があったと考えるのは自然だろう。一定のピッチや拍の発見は、いずれもその音を自然界にあるノイズから差異化するために実現されたことだ。なぜなら、どちらも自然界には存在しないものだから。音響がこのように差異化されていなければ、ふたたび自然界のノイズに埋没することになるのみだ。
　歌ったり、リズムを打ったりすれば、自然界のノイズからは弁別できうるサウンドが立ちあがる。ドゥルーズ＝ガタリの言葉を借りれば、これがリトルネロであり、領土化の第一歩ということになる<span class="reference"><a href="#407_00">（註）</a></span>。<br />
　音楽はノイズから立ちあがり、なんらかの発展をしていった、というのがここでの議論の前提である。いまではノイズ・ミュージックなどが盛んで、ノイズにもじゅうぶんな発言権が認められるようになってきているが、それを理解するには、それ以前に無反省に進められてきたノイズの追放という思想を振り返る必要がある。<br />
　音楽の始まりが、ノイズから弁別されうる音の探求だとするなら、次にはその音からノイズ性をできるだけ消去し、さらにピュアな信号となることをめざすことになる。かくして楽器は、明瞭なピッチを生みだせるよう、あるいはその音の信号成分をできるだけ明瞭にするよう、つまりノイズ成分をできるだけ抑えるように改良されてゆく。<br />
　しかしながら、じっさいに歌ったりリズムを打ったりしてみればわかるが、そこにはどうしてもノイズの混入が避けられない。息のように、発声行為に不可避的に混入する音だったり、ものを叩いたときに生じる望まれない不規則倍音だったり、めざした音と出た音との音程やタイミングの誤差だったりとさまざまである。<br />
　近代の西洋音楽文明では、ノイズの排除のために科学がふんだんに動員されることになる。そして、正確なチューニングのために周波数測定をしたり、基音と整数倍音のみを取り出して不規則倍音をミニマムにするためのさまざまな工夫が進んでゆく。それはやがて音楽の構成システムにまでおよび、倍音を基礎とする三和音の理論などにも一種の科学性のようなものが導入される。そのもっともはなばなしい成果は十二平均律の発明だろう。<br />
　物理学的法則である倍音の原理は、紀元前の時代から理解されていたことなのだが、音階を標準化することはたいへんな難事業だった。どこかを調整すると別のどこかにゆがみが生じる。さまざまな調律方法が開発され消えていった調律の歴史に決定的な終止符を打ったのは平均律の登場だった。だが、その実現のためには、音階というものから神秘性や情緒性をはぎ取り対象化する啓蒙思想の進展と、２の12乗根をもとめる計算を可能にする数学の進歩が必要だったのであり、それには17、18世紀まで待つ必要があった。<br />
　こういった西洋音楽の姿勢に対し、非西洋世界では、楽音とノイズの関係を宿命のごとく受け入れ、一種の共生関係なりたたせる道を求めた。西洋のようなテクノロジーをもたなければ、とうぜんこの道以外は残されていない。歌えば息の音はするし、音程もはずれる。どんなものからも非整数倍音は生じるし、どんなに正確に打っても拍は不均一になる。このようなノイズ要素との共存は、音楽というものを、あえていえば一種平和なものにしている。うまいへたは多少あっても、誰でもが参加可能だし、気軽に楽しむことができる。これは、西洋音楽が捨ててしまった潜在性のひとつである。今となっては、これを取り返すことはけっこうな難題だ。<br />
　回避しようにもあまりに近くに来てしまったので、ここらで、上記の論の補足として、ロラン・バルトの「声のきめ」という文章に寄り道する。バルトはパンゼラとフィッシャー＝ディースカウの声を比較し、パンゼラの声にある口腔や歯や鼻など、ようするに発声器官が発するノイズが、フィッシャー＝ディースカウの声では排除されていることを指摘し、パンゼラの声のノイズ性の意味を論じ、フィッシャー＝ディースカウの歌は平面的でつまらないと論じている。歌を歌うということは、テクストとしての歌と、実際の音響としての歌の両面を実現することであるが、その両者を切り分け、ノイズの側を徹底的に排除するのが、フィッシャー＝ディースカウに代表される近代以後の音楽と演奏に共有される方向性なのである。<br />
　このようなノイズの排除によって獲得されたのは、一種の合理性と普遍性であるだろう。ガムランのアンサンブルは楽器のセットごとに調律が異なるので、隣村のアンサンブルと合同演奏をしたいと思っても無理な話だ。西洋音楽文化においては、ホルン奏者がひとり風邪をひいても、その日予定のあいている代わりの奏者をひとり手配すればことたりる。どの国のどのメーカーでも、ホルンの調律は同じだからだ。音の高さと時間を縦軸・横軸で表したグラフのような五線記譜法を使えば、読み取り方さえ学べば、音楽の外様をまあだいたいはつかめるようになる。別の場所に譜面を持っていっても再現できる。このような合理性ゆえに、西洋音楽とその考え方は世界中に普及することになった。これがノイズの排除という生政治の成果の一端である。<br />
　ノイズの排除は楽音からのノイズの排除のみならず、音楽の構造や微妙な口承的要素の合理化にまでおよんでいった。装飾音などにみられるパフォーマンス・プラクティス（演奏習慣）は標準化され、記譜によって明示されるものとなり、譜面化できない即興性も排除されていった。こういったことをもう少し概念化していうなら、それは音楽からの身体性の排除ということになるだろうか。いや、そもそもこの生政治は、音楽という行為のなかでの生の管理なのである。啓蒙思想の普及と並行して、ある時代以後、音楽から祝祭の狂気や暗黒や静寂の危険が消えてゆく。それに代わったものが絶対音楽や音楽の自律性や芸術至上主義といったヴァーチャルな場である。そして宇宙にまで解放された自由さとその代価としての一種の危険さを秘めていた音楽は、芸術という安全なヴァーチャルなリングのなかでの闘いへと移行する。音楽からは危険さは失われ、芸術という安全なゲームが始まる。音楽は生政治の管理下におかれ、武装は解かれたのだ。<br />
　なぜこのようなことが起きたかは、これからの検討課題であるのだが、いまのところフーコーによる近代の生の管理の議論を借り、それが音楽にまでおよんだという説明にとどまるほかない。だがこれは、少なくともおもしろみに欠ける結論だろう。音楽に特権的な地位をあたえる時代は終わったものの、かといって社会文化に従属させるだけでは、少なくとも音楽そのものをよりおもしろくすることにはつながりそうにない。<br />
　ブルースという音楽は、こういったノイズの排除について考えるときに、ある有効な視点を提供してくれると思う。レッドベリーなどの初期のブルースからもっとのちの12小節パターンへの整理の過程は、もちろん上記の合理化によるノイズ排除の原則に従うものだ。生政治の対象となったことはブルースも例外ではない。しかしながら、ブルースという音楽のハイブリッド性は、そんなにヤワなものではなかった。ブルースの音階とそのハーモニーのあいだのずれは、いまでも合理化をはばんでいる。たとえば長３和音上にのっかる短３度の音程は、♭10thとも♯9thとも説明されるが、その不合理さを回収しきれるものではない。<br />
　西洋近代の発想による理論化という生政治的管理をくぐり抜けたブルースは、西洋的な音楽語法としては強度を異例に保ちつづける。得体のしれないブルース・シンガーという人たちから始まって、バップ・ミュージシャンがジャズ語法に、プレスリーが軽薄な恋歌に、ビートルズやストーンズが意味ありげなロックに、ジェームズ・ブラウンがノリだけのファンクに、さらにR & Bに……いったいどれだけの音楽がここから生成してきたことだろう？<br />
　これははからずも、西洋音楽のドレミとドミソのシステムに、異種の音楽をむりやり詰め合わせた結果生じた矛盾ゆえに生まれた力である。ブルースはこの力によって、西洋近代音楽の生政治からかろうじて逃走しえた数少ない例外のひとつかもしれない。もちろん、ブルースに特権的な地位をあたえたところで、問題は解決しない。だが、アーバン・ブルースのあとにわれわれに残されたポスト・ブルースとは？──と、ちょっと考えてみるのも悪くはないだろう。</p>
<p class="reference"><a name="407_00"></a>
註　ドゥルーズとガタリは、暗闇で子どもが歌をくちずさみはじめる話から、混沌とした世界に自分の落ち着く領域を確保しようする行為を領土化ということばで概念化し、それを芸術表現行為の始まりと論じる。この領土化においてなんらかの反復により形が生じることをリトルネロとよぶ。やがてそれは運動性をもとめてカオスに向かって開かれる。これが脱領土化である。芸術表現行為はこのような領土化と脱領土化の繰り返しにより、生成変化してゆく運動とドゥルーズとガタリはとらえる。このような芸術のとらえ方はアヴァンギャルドな芸術の意義を大きく認めるものなので、多くの現代芸術家たちから支持されている。</p>
<p class="reference">［参考文献］<br />
　菊地成孔、大谷能生：『東京大学のアルバート・アイラー──東大ジャズ講義録・キーワード編』、メディア総合研究所、2006<br />
　クロード・レヴィ＝ストロース：『生のものと火を通したもの』、みすず書房、2006<br />
　ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ：『千のプラトー』、河出書房新社、1994<br />
　ロラン・バルト『第三の意味』、みすず書房、1998</p>]]>
      
   </content>
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   <title>第３回　近代西洋音楽と生政治</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.artespublishing.com/serial/archives/wakao/wakao03.html" />
   <id>tag:www.artespublishing.com,2009:/main/serial//3.406</id>
   
   <published>2009-08-12T02:06:47Z</published>
   <updated>2009-08-12T02:08:03Z</updated>
   
   <summary>　ベートーヴェンに代表されるような、モラルとかかわるものとしての音楽は、その後、...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="002反ヒューマニズム音楽論 （若尾裕）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p>　ベートーヴェンに代表されるような、モラルとかかわるものとしての音楽は、その後、他愛もない遊びのようなロココ様式のモーツァルトの音楽にも拡大され、天真爛漫な子どものような純粋さとして、モラルのストーリーのなかに位置づけられる。バッハの場合はどうだったか？　1820年代から始まったバッハの復活演奏が、その当時の人びとには、じつのところ、ただただわけのわからないお堅い音楽に聞こえたのは無理からぬことだ。なので、なにやらわからないけれど偉い音楽という地位があたえられ、崇高さや宗教性や深さとともに語られるようになった。これは基本的にいまも変わっていない。その後、バッハの音楽は長い時間をかけてロマン派的心性に近づけるべく工夫されヒューマナイズされ、今のような演奏スタイルになっていった。<br />
　こういった動きには19世紀のドイツ教養主義の影響がおおいにかかわっているし、またこんにちにいたるまでのドイツ音楽優位の思潮もこのあたりで作られていったようなのだが、これについてはほかでも少しずつ議論されはじめられているのでスキップすることにし、ここでは次のような生政治（<a href="http://www.artespublishing.com/serial/wakao/00397.html">第２回</a>を参照）にとくにかかわる側面についてのみ注目しておきたい。<br />
　ドイツ音楽にたいしてドイツ人が特別な意識をもつようになるのは、19世紀の半ばあたりのことだが、やがて20世紀になり、1938年には第三帝国の宣伝相、ヨーゼフ・ゲッペルスが大規模な音楽集会において、音楽こそがドイツの輝かしい遺産であると高々と国民に宣言するにいたるまでになる。<br />
　音楽学という学問の基礎が形成されていったのは、そういった第一次世界大戦後のワイマール期からナチス・ドイツの時代にかけてだった。比較音楽学とよばれる今の民族音楽学のもとになった学問分野もこの時期に作られる。もちろん、ここでいう「比較」とは、さまざまな世界の音楽を比較するということなのだろうが、真意は「西洋音楽」と「非西洋音楽」の比較にある。<br />
　こういった動きのなかで、さらにドイツ音楽がドイツらしいといわれる、その所以についての研究がなされたりもしている。たとえば、フリッツ・メッツナーはドイツ民族音楽の音感が明確に長調と三和音であるのに対し、北欧の民謡は短調や教会音階や半音階に傾く理由を、なんと頭蓋骨の形に求め、短頭蓋骨系であるドイツ人は長調系、長頭蓋骨系である北欧人は短調系、という理論で説明を試みている。ほかの短頭蓋骨系のモンゴロイド族が5音音階と長3和音的メロディをもつことが例証としてあげられ、いっぽうペルシャ人、インド人、アラビア人が北欧の長頭蓋骨系と共通する例としてあげられている。笑い話ではなく、これは1938年に提出された博士論文なのである。もちろんのことだが、いままでのところこの説を裏づけるような研究は見あたらない。アーリア人という人種の優秀さとドイツ音楽の優越性を結びつけることが求められた、この時代の特殊な事例ということになるだろう。<br />
　しかし、異常な時代ゆえと片づけてしまえる問題でもない。よく似た発想がじつはわれわれの時代にもまだ残っていることをここで指摘しておくべきだろう。たとえば、日本のクラシック音楽の世界でひんぱんに聞かれる、日本人の歌声がイタリア人のベル・カントのようにならないのは、骨格や体格などが異なるからである、というような言説である。まことしやかに聞こえるが、いままでに誰かがほんとうに解剖学的で科学的な研究をしたという話は聞いたことがない（考えただけでうんざりするが、じつは私が知らないだけで実際にはあるのかもしれない）。同様の発想は、あらゆる面においての日本人とヨーロッパ人の音楽上の差異について語られるときにしばしば使われるが、もちろん日本のみにかぎったことではあるまい。文化が異なれば、その差異はもちろん音楽の上にも表れてとうぜんであるが、人種主義にまで至るところになにやら問題を感じる。<br />
　ポピュラー音楽がなりたっていったのも、そういった音楽学の黎明期である20世紀前半のことで、これには放送や録音といったメディアの発展がおおいにかかわっている。ポピュラー音楽は、オペレッタやミュージカルのようなクラシック音楽と大衆音楽の中間にある音楽や、映画で歌われた歌や民衆のはやり歌のようなものを吸収しながら発展し、1950年代には今のようなポップ・ソングのスタンダードな形ができ、その後アフロ＝アメリカン音楽のノリ（現在の８ビートのポップ・ロック）を加味してグローバル化されてゆく。１曲が４、５分で終わるのは、当時のSP盤やドーナツ盤などメディアの収録時間の都合によるものである。連続で１時間はゆうに入るCDの時代になっても、なぜかこのスタンダードは変わらない。<br />
　ドイツの社会学者、アドルノはポピュラー音楽は芸術性や精神性に欠けるという観点から、それを低い位置においたが、ポピュラー音楽のアドヴァンテージはまさに、芸術性や精神性のようなドイツ音楽的大義から解放され自由になったことにほかならない。それにせいせいしたように、その後ポピュラー音楽はクラシックとはくらべものにならないほど大きな市場を獲得してゆくことになるが、それを可能にしたのは、杜こなてが指摘するように、その大義を現代音楽に背負わせることができたからだろう。<br />
　芸術性や精神性に代わってポピュラー音楽が背負わされたのは、短時間内に情動を供給するという役割である。考えてみればこれもやっかいな仕事ではある。数分で人の情動を効率よくつかむようなキャッチーな言葉と音が求められるのだから。それゆえ、どんなに労作であってもヒットするかどうかは運にかけるしかないし、１曲の寿命も長くない。<br />
　芸術性という大義においては、クラシック音楽とポピュラー音楽とではおおいに性格を異にするが、音楽技法の点では現代音楽にくらべればずっと共通性がある。どちらも調性と三和音による和声、そしてそれによる情動操作に依存しているので、ちょうどそこから逸脱していくところだった現代音楽は、芸術性というやっかいな役割を押しつけるには好都合な存在だったにちがいない。現代音楽の側も、さほど聴衆を獲得できない音楽の大義をなりたたせるには芸術性というマジックに頼るしかない。まるで聴衆からの支持のなかったシェーンベルクの音楽を、『新音楽の哲学』を書いたアドルノだけでなく、意外に多くのドイツの批評家がもちあげたのは、芸術性というものへの彼らのひとかたならぬ固着ゆえであろう。<br />
　ポピュラー音楽が現在使っている和声技法は、基本的にロマン派の音楽によって開発されたものであるが、のちにコード進行の技法へと単純化され、バークリー・メソッドのように一種の普遍原理のような体裁にまでまとめあげられるようになってゆく。<br />
　ロマン派音楽とポピュラー音楽の和声進行でやや異なるのは、クラシック音楽ではメロディとバスの関係に微かに残っていた対位法のなごりが、ポピュラー音楽ではほとんど消滅し、１小節１和音のように和音の進行が拍節とシンクロし、より単純化したことだろう。その結果、コード進行による情動の類型的表現が発展する。とうぜんこの類型により、似かよった曲が大量に作られてゆくことになる。<br />
　この類型にはそれほど多くのヴァリエーションはないので、目の前に並べられた音楽という商品のなかから好きなものを選ぶというスタイルが、人びとの音楽行動として確立されてゆく。この現象をどのようにとらえるかは立場によって変わるだろうが、現在の音楽社会学の重要な課題であることはまちがいない。人びとが音楽から得たいと願っている共感と供給される音楽の情動とのあいだのずれを個人的に調整する過程によって、この音楽行動がなりたっていることも確かだ。そしてこのずれの調整は、うたとこころの関係に微妙な関係をおよぼしている。歌はわたしの心を代弁してくれるいっぽうで、楽しいとか悲しいとかの気分がどのようなものかをわたしに教えてもくれる。つまり、ポピュラー音楽は人の情動を社会的に管理するための一種のツールになってきているとも考えられるのである。<br />
　ポピュラー音楽のビジネス市場はまだ巨大であることには変わりはないが、昔のようなヒット作が徐々に減少し、若者もCDや音楽にさほどお金を使わなくなってきているのは、そろそろ数十年間使用されてきたポピュラー音楽という装置も終焉に向かいはじめたことを表しているのかもしれない。<br />
　上記のような民族アイデンティティや情動の管理の問題は、人の生にかんする社会による制御という意味で、生政治的な現象と考えるしかない。確認しておきたいことは、近代西洋音楽というイデオロギーのなかに、上記のような生政治的な側面が最初からそなわっていたということであり、それが姿を変えながらさまざまに表れていることである。それはなぜかということについてはまだ多くの検討を必要とするだろうが、ひとつにはマックス・ウェーバーが指摘したように、近代西洋音楽が合理性という道具的理性によって突き動かされてきたことがあげられる。啓蒙や合理性が一種の暴力性をもちうることは、アドルノとホルクハイマーの指摘やアウシュヴィッツの悲劇をもちだすまでもなく、もういまでは誰もが空気のなかに感じていることにちがいない。
</p>
<p class="reference">［参考文献］<br />
　石井宏：『反音楽史』、新潮社、2004<br />
　Potter, Pamera M.: <i>Most German of the Arts</i>, Yale University, 1998<br />
　杜こなて：『チャップリンと音楽狂時代』、春秋社、1995</p>]]>
      
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   <title>第10回　日本戦後現代音楽史──前衛とアカデミズムの逸話（１）</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.artespublishing.com/serial/archives/kokaji/kokaji10.html" />
   <id>tag:www.artespublishing.com,2009:/main/serial//3.405</id>
   
   <published>2009-08-11T07:56:16Z</published>
   <updated>2009-08-18T01:36:08Z</updated>
   
   <summary>　1950年代の戦後日本現代音楽史は、ヨーロッパ前衛音楽のはるかな響きを共有しな...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
         <category term="001音楽・知のメモリア （小鍛冶邦隆）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p>　1950年代の戦後日本現代音楽史は、ヨーロッパ前衛音楽のはるかな響きを共有しながら、解き放たれた空想の刻（とき）を生きる。<br />
　戦時の音楽文化統制という実体のともなわない制度が同時代の音楽におよぼした影響は、当時の音楽的水準ゆえか、音楽的実質とはけっして共振しえなかったと考えてよいだろう。<br />
　戦後という、その外延に、前衛・反逆の歴史が刻まれるというのも、不可思議な物語＝歴史（ヒストリー）の、さらなる逸話（エピソード）であろうか。<br />
　戦後の創作史は、いうまでもないが、さまざまな同人会的グループによる作品展がその中心になる。こんにちもっとも知られている「実験工房」のようなマルチメディア的な運動は、その外延の文化的多様性により、音楽創作の歴史性からまさに逸脱した条件を得るところから出発している。武満徹に代表される「現代音楽」──その「現代」という時代性は、同時代の文化全般にわたる共時性（コンテンポラリー）のもとで、芸術音楽の歴史性から自由になり、その出自と評価にたいして自己基準を設定することが可能となったことにより獲得されたと考えてよいだろう。</p>
<p><span class="style4">◎制度・アカデミズム</span></p>
<p>　ところで、芸術音楽の歴史性とは、いうまでもなくヨーロッパ社会における階級社会性を反映するものである。<br />
　日本の洋楽移入は、とうぜんながら近代国家としての文化政策と市民文化の擬似的配置に、その根拠がもとめられる。そこでは制度としての音楽が必要とされるのは必然である。19世紀以降のヨーロッパ市民社会が、制度としての芸術音楽の拠点として、音楽教育機関の整備を意図したように、日本では明治時代以降、東京音楽学校（現在の東京芸術大学）がその中核におかれたわけだが、制度としての音楽文化のなかでも、創造の拠点とするべく作曲科が設置されたのは、1932年であったということが、日本の音楽文化の状況を表しているといえよう。<br />
　さて、戦後の日本現代音楽史においてしばしば、東京芸術大学作曲科という唯一のアカデミー（制度）の歴史が、それに「対する」傍系・逸話としての反動の歴史のなかでのみ、記述されている点に注目したい。ここには、こんにちにいたるまで、傍系があたかも中心をしめるような擬似的配置のもとに、反アカデミズムの神話を生みだした人びとの物語（ヒストリー）がある。</p>
<p><span class="style4">◎舶来と土着</span></p>
<p>　ヨーロッパにおける新旧の音楽文化の推移は、おもに教会音楽、オペラ、交響曲、室内楽、歌曲といったジャンルの枠内でおこなわれてきた。<br />
　1950年代のヨーロッパ前衛音楽が、こうしたジャンルの枠組み（ジャンル特有の、あるいは共通する形式や語法）をほぼ踏襲しながら（あるいは意図的に解消しながら）展開されたのは明らかであろう。こうした音楽創作におけるジャンル性は、19世紀以降の作曲専門教育における、各モデルとその分析、再創作という手順を反映している（とうぜんながら歴史的な作曲技法もまた、それじたい方法論として内在化する）。こうした歴史的な音楽創作の基準をあえて顧慮しないところに、「実験工房」のようなマルチメディア的創造の可能性が生じたといえるが、そこでは同時に、歴史的な創作原理との直接的な対峙はつねに回避されなければならなかったともいえる。あえていえばそこには制度（アカデミズム）の思わせぶりな影さえ暗示されていればよかったのである。こうした芸術運動を支持したのは文学、美術、映像作家たちであったが、彼らからすれば、音楽という実態の定かでない分野を巧妙に活用したというところであろうか。<br />
　反面、演奏芸術については、日本においても、相当ていどにヨーロッパの音楽文化との共時性が反映した歴史がみられる。その中心的存在としての、戦前の東京音楽学校のお雇い外国人教師による教育は、戦後の実技教育に1930年代の新即物主義（ノイエ・ザハリヒカイト）の影響化にある演奏という遺産をのこす結果となった。またそうした旧世界からの舶来文化＝精神的風土に対し、戦後の桐朋学園やヤマハ音楽教室等の、日本文化的特性に根ざした、いわば土着的方法論が、新世界（アメリカの技術主義と大衆性）を視野に入れながら対峙することになる。<br />
　創作においても「ヨーロッパ対日本」といった、前衛の精神主義と日本的感性＝慣用法が問題となる。</p>
<p><span class="style4">◎現代の音楽・音楽の現代を語る人びと</span></p>
<p>　「実験工房」にみるまでもなく、戦後の創作運動の主導者たちは、創作者であるより運動のオーガナイザーであることが多いが、場合により（武満徹から細川俊夫にいたる系譜にみられるように）、これらを創作者がしだいに兼ねていく状況もみられる。これらは、戦後の多くの作品発表活動の延長線上に、こんにちも主流をしめる同人的活動の水平的水準に比較して、メリハリにとんだ同時代性（コンテンポレイニティ）を特徴とする。<br />
　1990年代以降こうした創作運動は、さらに若手作曲家を中心として、前衛以降のヨーロッパ現代音楽の潮流を学ぶという（あたかも1950年代を再現するかのような）講習会的組織に重点を移していくともいえるが、ここでは戦後の音楽学（アカデミズム）の教育をうけた批評家＝音楽学者たちが、彼らとジャーナリズムとの仲介をひきうけ、みずからもジャーナリズム・企業体の磁場に周回軌道を合わせることになる。同時代性を基準とするかぎり、こうした批評家たちが、現代の音楽文化（消費）の主流をしめる、企業体主催公演や今日的な文化的イヴェントとしてのオペラ公演に、現代音楽の分野でつちかわれた、巧緻なその言説＝レトリックをシフトするのもとうぜんといえようか。</p>
<p><span class="style4">◎伝統・アカデミズム</span></p>
<p>　東京音楽学校作曲部は、戦争（戦時文化協力）問題について、その論点すら明確にするすべもなく、あいまいな人事の入れ替えののち、戦後1949年の教育制度改革により東京芸術大学作曲科となる。信時潔（1887-1965）や橋本國彦（1904-49）らの戦前・戦中の指導者たちによる、ほんらいドイツ音楽志向の強い教育方針が、下総皖一（1898-1962）や長谷川良夫（1907-81）といった彼らの継承者により受けつがれたものと思われるが、同時にパリ国立高等音楽院によって構築された、技術と様式の修得に特化した近代的教育を信奉する池内友次郎（1906-91）による、和声・対位法・フーガからなる作曲書法（エクリチュール）教育<span class="reference"><a href="#405_01">（註１）</a></span>を根幹とする新たな流派（エコール）が参入する（これらの作曲書法教育の前提となる、パリ音楽院のソルフェージュ教育の基幹が整備されるのは、さらに遅れて1980年以降、戦前同様に外国人お雇い教師であるH. ピュイグ＝ロジェを中心とした継続的改革ののちであった）。こうした戦前・戦後の伝統的な作曲専門教育にみられる流派（エコール）に、あたかも日本的な伝統芸能のあり方になぞらえるように、アカデミズム・保守性というあいまいな概念が重ねあわされているところが、こんにちにいたっても反動性という評価を温存する根拠となっているのであろう。<br />
　「前衛」というあきらかに時代的なファッション性に依拠する視点と、むしろさまざまな文化的テクストの織りなす歴史性から一定の基準で抽出される「アカデミズム」を、同列に比較することはほんらいむずかしい。しかしながら、その根拠のとぼしさが、前衛と反動の物語を織りなす意味でまた、歴史性といった視点を提供しているともいえようか。</p>
<p><span class="style4">◎同時代的（コンテンポラリー）な貧困</span></p>
<p>　1970年万博以降、ある意味権威主義化した現代音楽は、1980年以降の多極化（グローバル化とも称されるが）と同時に、さまざまな同人会的作品展の氾濫による飽和的な状況を経過してきたといってよいかもしれない。個人的創作という究極のアンデパンダンの理念が、東京という都市文化における、無辜な祝祭の刻を生みだしたのだ。<br />
　いっぽう作曲という技術的手段は、高度に集約化された文化資本のまえに、その能率化と目的の明確性をもとめられることになる。アカデミズムという、いまだ唯一の学習形態にあって、若い作曲家たちは伝統的な音楽文化というあり方を、今日的にいいかえれば、「格差」と「下流志向」という観点から再度学習しなおすのである。20世紀以降の市民社会におけるマイノリティとしての「現代音楽」を大前提にし、「文化資本（いわゆる教養）には差別化機能がある」という伝統的（社会上層）概念を、「こんにちにおいてはもはや、文化資本には差別化機能がない」と反転させることによって伝統を無効化し、現代音楽の特権化という名の下層化（一般化）が進行する。それらはやがて、さらなる閉鎖的な階層化をもたらすことになる<span class="reference"><a href="#405_02">（註２）</a></span>。</p>
<span class="reference"><p><a name="405_01"></a>註１　本連載<a href="./kokaji09.html">第９回「メシアン、あるいは知の継承（Le savoir transmis）をめぐって」</a>参照。<br />
<a name="405_02"></a>註２　「例えば、日本でも、社会上層では「文化資本（いわゆる教養）には差別機能がある」と信じられていますから、子どもたちは進んで文化資本を身につけようとします。逆に、社会下層では「文化資本には差別機能がない」という考え方のほうが受け容れやすいので、子どもたちはむしろ積極的に文化資本を拒否するふるまいによって同集団の大人たちからの評価を期待します。階層が閉鎖的になると、子どもは階層内部的な評価を通じてしか「自身」を高める道がありませんので、子どもは所属階層のイデオロギー性をいっそう「濃縮」した仕方で体現するようになります。そのようにして、わずかな世代交代の間に、階層は急速に閉鎖的になります」（内田樹『下流志向』講談社、2007年、114頁）<br />
　本稿ではかならずしも、上記の引用テクストにおける文化一般の社会上層対下層の位置づけのレトリックを、音楽文化における伝統対現代性の問題に読み替えようとしているわけではない。むしろ言説の内部にある関係性の変化が、伝統的音楽文化においても、伝統性と現代性の反転を容易にひきおこすことがあるということを強調したい。
</p></span>]]>
      
   </content>
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   <title>第９回　メシアン、あるいは「知の継承（Le savoir transmis）」をめぐって</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.artespublishing.com/serial/archives/kokaji/kokaji09.html" />
   <id>tag:www.artespublishing.com,2009:/main/serial//3.404</id>
   
   <published>2009-08-11T07:53:54Z</published>
   <updated>2009-08-17T23:08:31Z</updated>
   
   <summary>　パリ国立高等音楽院における、オリヴィエ・メシアン（1908-92）の教育活動は...</summary>
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         <category term="001音楽・知のメモリア （小鍛冶邦隆）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p>　パリ国立高等音楽院における、オリヴィエ・メシアン（1908-92）の教育活動は、37年間（1941-78） におよぶ。当初1941-47年に和声クラス教授として、また1947年以降は当時の音楽院院長クロード・デルヴァンクール（1888-1954）により任命された分析クラス教授としての教育活動が知られている。後者は「音楽美学・分析」（-1954）、「音楽哲学」（-1961）、「音楽分析」（-1968）と名称を変えながら、メシアンのもっとも知られた教育活動として中核をなすものといえる。作曲クラスを指導した期間が、メシアンの教育活動の最後の時期（1967-78）にすぎないことは意外に知られていない<span class="reference"><a href="#404_01">［註１］</a></span>。<br />
　３期にわたる教育活動は、結果的にそれぞれ音楽行政上のできごとと関連すると考えられよう。1941年の和声クラス教授就任は独軍占領下、ユダヤ系教授アンドレ・ブロックの罷免にともなう結果であり、1947年の「音楽美学・分析」クラスの創設は、和声クラス教授としてかならずしも成果を出すことのできなかったメシアンほんらいの長所を生かす選択であったと推測される。またレイモン＝ガロワ・モンブランにより1966年に任命され、67-68年の「音楽分析」クラスの最後の学期と重複しておこなわれた作曲クラスにおける最初の教育活動は、1968年の５月革命に起因する音楽院の制度改革と関連する。<br />
　以下、メシアンの教育活動を概観しつつ、必要におうじてメシアン自身の創作活動との関連性にも留意しながら、フランス近・現代における作曲専門教育の歴史性について若干の考察を試みたい。</p>

<p><span class="style4">◎書法（エクリチュール）の教育</span></p>

<p>　パリ高等音楽院の設立以来の教育システムの中心は、楽器の実技教育はとうぜんとして、さらにソルフェージュ教育と和声法・対位法（フーガ）からなる作曲書法学習（エクリチュール）であるといえよう （とうぜんながらソルフェージュ教育と作曲教育は今日にいたるまで、緊密に関連した歴史的経緯がある） 。<br />
　19世紀フランスにおける作曲教育の目標はオペラ作曲家の養成にあり、「ローマ大賞」にみられるように音楽院での最終コンクールは、あたえられたテキストによる劇的情景としての《カンタータ》の作曲を実践するための、声楽的声部書法としての和声・対位法（フーガ）、さらにオペラふう管弦楽法の修得が最優先課題であった。今日では多少理解しがたいかもしれないにしても、フーガ作曲の成果がつねに作曲科修了の、あるいはローマ大賞の予備試験の課題となるのは、オペラの重唱・合唱の書法の実践としての必要性ゆえなのである。<br />
　これらの歴史的慣習にもとづく独自の教育体系は、1905年、例外的に音楽院の出身者でないG. フォーレの院長就任による、書法クラスと作曲法クラスの分離や、音楽史クラスの創設をはじめとする制度改革にもかかわらず、維持されつづけたといえる。<br />
　ところでローマ大賞受賞（入賞）者でもないメシアン（２度の試みは失敗に終わった）独自のキャリアは、音楽院ほんらいの歴史性と複雑に交差しながら展開するのである<span class="reference"><a href="#404_02">［註２］</a></span>。<br />
　1919年以来音楽院で学んだメシアンであるが、1926年に和声法の２等賞、さらに対位法とフーガ（1926）、ピアノ伴奏法（1928）、音楽史（1929）、作曲法（1930） での各１等賞獲得は、M. デュプレのオルガン演奏と即興クラスでの１等賞獲得（1929）において、はじめて総合的な成果をみる。H. ビュセールの作曲クラスを中心とするローマ大賞作曲家たち（H. デュティユーらに代表される）と異なり、P. デュカの作曲クラスからオルガ二スト（教会音楽家）へ、というメシアンのキャリアは、カトリック信仰によるというよりも、ある意味、音楽院における伝統的学習のもたらした偶然ともいえる。</p>

<p><span class="style4">◎伴奏法クラスとオルガ二ストの伝統、あるいはミュジシャン・コンプレ</span></p>

<p>　「そして十六か十七のころ、私の和声の先生だったジャン・ギャロンが、オルガンを勉強するために私をマルセル・デュプレに紹介してくれました。私がカトリックだったからというのではなく、私のなかに即興演奏の才能を認めたからなのです。当時わたしはピアノでの伴奏のクラスの賞を得ていました。このクラスでは旋律課題に和声をつけることだけではなく、初見（デシフラージュ）やオーケストラの総譜をピアノで弾くことなどもやったのですが、旋律課題が鍵盤上での即興の重要な部分を占めていました。そして私がこの方面で才能を示し、オルガンという楽器が本質的に即興向きのものであるため、オルガンのクラスに入れたわけなのです」<span class="reference"><a href="#404_03">［註３］</a></span><br />
　伴奏科（正式にはピアノ伴奏科 Classe d'accompagnement au piano）についても、同様に音楽院の歴史的な教育制度と重要な関連がみられる。今日理解されるピアノ伴奏という意味と異なり、伝統的な総譜視奏の訓練（accompagnement pratique）と、ほんらい和声法クラスにおける伝統的な通奏低音法の実施の学習過程としてあったaccompagnement d'harmonieをまとめ、「伴奏科」クラスが新設されたのは1878年のことである。1880年に１等賞を獲得たドビュッシーが、はじめてその才能を公式に評価されたのもこの新設クラスにおいてであった。<br />
　オルガン・クラスとは別に、ピアノ伴奏科では初見視奏、総譜視奏や通奏低音法のみならず、教会音楽家＝オルガ二ストの伝統的な修練、必要におうじてコラールの和声付け、前奏や間奏の即興と移調の技法などが、かたちを変えつつも基本的な課題とされてきた経緯についてはあまり知られていない<span class="reference"><a href="#404_04">［註４］</a></span>。<br />
　とうぜんながら高度に実践的なそのあり方は、バッハに代表されるようなバロック以来の「完全なる音楽家」ミュジシァン・コンプレ（musicien complet）の伝統の中核をになうものなのである。<br />
　こうした過程からメシアンが1931年以降、聖トリニテ教会オルガ二ストとしての半世紀以上にわたる職歴と、パリ国立高等音楽院での教育活動や自身の創作活動を総合していったところに、単純にカトリック信仰のみに帰することができない経緯があることをじゅうぶんに理解する必要がある。</p>

<p><span class="style4">◎楽曲分析と作曲法・その歴史性について</span></p>

<p>　音楽院における作曲専門教育と書法クラスについてすでに述べたが、19世紀前半には音楽院教授A. レイハ（ライヒャ）に代表される、既存の作品の分析による作曲法の分類から創作を学ぶ方法論が重要であった事実を知る必要がある<span class="reference"><a href="#404_05">［註５］</a></span>。20世紀初頭のV. ダンディ『作曲法講義』（1903-50）にいたる、こうした伝統の延長線上にメシアンの「音楽分析」クラスのあり方を規定するべきであろう。そこでは従来から無批判に語られすぎるきらいのあった、伝統の見直しや前衛音楽の最前線としての評価のみでは語れないものがある。<br />
　メシアンは、M. エマニュエルの音楽史のクラスと、デュプレのオルガン即興演奏から、古代ギリシアの韻律法（メトリック）に関心をいだいたと語っている。さらにヒンドゥー（インド）のリズムにも興味の対象をひろげてゆく背景には、近代フランス特有の異国趣味（エキゾティスム）、あるいは植民地主義（コロニアリスム）すら想像できる。しかしながらこれらは、1940年代に作曲された《世の終わりのための四重奏曲》（1941）、《アーメンの幻影》（1943）、《幼子イエスに注ぐ20のまなざし》（1944）から《トゥランガリラ交響曲》（1946-48）をふくむトリスタン３部作にみられる、カトリック信仰とシュールレアリスムの臨界閾同様に、『わが音楽語法』（1944）に分析可能な作曲技法としてまとめられた帰納的な原理における、素材の水準を語るにすぎない。なによりもここで追究されているのは、作曲の方法論であり、それらは「分析」という過程において顕在化するのである。<br />
　６年間で終わったメシアンの和声法クラスからは、Y. ロリオとP. ブーレーズという２名の１等賞受賞者しか出なかったにしろ、クラスでは常時、あきらかに和声学習の領域を逸脱しながらも、さまざまな作品の分析がおこなわれていた。<br />
　同時期に音楽学者G. B. ドゥラピエール宅でおこなわれていたメシアンによる私的な分析講座でも、メシアンはブーレーズ、S. ニッグ、P. アンリといつた和声クラスの生徒たちに、バルトーク、ベルク、シェーンベルクやストラヴィンスキーと自作品を中心に、新たな音楽的興味と知識をあたえていた。こうした新しい音楽技法の受容が、分析をつうじての作曲技法の分類・実施という手順でおこなわれたところに、メシアンと伝統的な作曲技法の修得の方法論との一致がみられる。やや遅れて開始された、R. レイボヴィッツによる新ウィーン楽派の音楽と十二音技法についての私的講座が、メシアンの生徒たちを本格的な音列技法へとみちびく<span class="reference"><a href="#404_06">［註６］</a></span>。<br />
　やがてダルムシュタット（1950-53）ほかでの、教育活動の広がりと同時に、さらに集中的な音楽分析による過去と現在の音楽のあり方の探究が、パリ国立高等音楽院でのメシアンの「音楽分析」クラスにおいておこなわれる。</p>

<p><span class="style4">◎前衛・秘教（1949-1960）</span></p>

<p>　1951-52年度のメシアンの音楽美学・分析クラスの聴講生リストにはシュトックハウゼンやクセナキスの名前がみられる。こうした戦後の前衛音楽の中心となる若い作曲にたいする影響は、メシアンの啓かれた音楽思想と教育の証として、しばしば語られてきた。たしかにシュトックハウゼンはメシアンのピアノのための《音価と強度のモード》（1949）を195１年のダルムシュタット現代音楽講習会で聴いて興味をもち、1952年（1月以降）の短期間、パリ国立高等音楽院のメシアンの音楽分析クラスに登録したものと思われる。しかしメシアンが語るように当時とりあげていたモーツァルトのアクセント法がシュトックハウゼンにあたえた影響はきわめて限定的であるし、むしろシュトックハウゼンがフランス国立放送局で制作した実験的なミュージック・コンクレート作品《エチュード》（1952）と同時期に制作した、メシアンの《音色─持続》（1952）の成立の経緯のほうに関心がもたれる。《音価と強度のモード》は、３つのモード＝12の音高と24の持続（音価）、12のアタックと７つのダイナミクス（強度）を組み合わせ、高・中・低音域でそれぞれの単音が特定の音高、音価、アタック、強度をそなえた３分半ほどのピアノ曲であるが、ブーレーズやシュトックハウゼンらに強い影響をあたえ、結果的に全面音列技法の実現を加速化したのは事実であろう<span class="reference"><a href="#404_07">［註７］</a></span>。有限な人間にあってはリズム＝時間の分割の試みをつうじてのみ、初めも終わりも継起もなきもの「本質的に永遠なるもの」を希求することができるというメシアンの音楽思想が、その技法的側面において、1953年以降のシュトックハウゼンの電子音とテープ操作による新たな創作原理を暗示したといえる。ドイツに帰国後に制作されたシュトックハウゼンの２つの《電子音楽習作》（1953，54）において試みられたのは、純音とノイズ、時間と可聴形式をめぐる、伝統的音楽では実現できなかった理論的な作曲の新たな方法論であったといえよう。さらにシュトックハウゼンは電子音楽制作の経験を前提に、ドビュッシーやウェーベルンの音楽の新たな評価を試みるのである<span class="reference"><a href="#404_08">［註８］</a></span>。<br />
　メシアンのカトリック的・秘教的ともいえる創作と、戦後の若き前衛作曲家たちとの関係が、技法的・歴史的な一種のねじれをともないながらも、1950年代をつうじて豊かな創意と成果を生み出したのは事実であろう。またメシアンにおいてこの時期は、自然界の現実音＝鳥の歌の採集・変形・編集といった過程と作曲手法の一致から生み出された《鳥の目覚め》（1953）、《異国の鳥たち》（1956）、またその集大成としての《鳥のカタログ》（1956-58）から、時間（持続）における数的神秘論、鳥たちの歌や大自然の音響のノイズを思わせる複雑な複合音の彩色法による《クロノクロミー》（1960）にいたる豊穣な創作時期でもあったのである。これらの作品でもちいられた手法についても、《異国の鳥たち》がミュージック・コンクレートや電子音楽における音源と加工・編集の過程を思わせる反面、ヒンドゥー音楽に由来するかの《鳥の目覚め》の真夜中から正午にいたる現実的時間と、《クロノクロミー》における音楽的時間の持続（音価・リズム・韻律）による再構成が対峙することなどからは、メシアンほんらいの関心と前衛音楽からの複雑で屈折した影響関係がみて取れる。</p>

<p><span class="style4">◎知の継承</span></p>

<p>　メシアンはみずからをカトリック信仰にもとづく作曲家にして教会オルガ二ストと定義し、宗教的想像力を起点にして、永遠の象徴である限定と不可能性としての「移調の限られた旋法」「逆行不能リズム」「均斉置換（permutation sym&eacute;trique）」などの作曲技法をもちいた秘教的創作をおこなったと考えてよいだろう。<br />
　オルガンの音響は、その宗教的イメージと同時に、近代の慣用的、限定的な音律から逸脱する、複雑な倍音構造によって、メシアンの前スペクトル的な音響的発想<span class="reference"><a href="#404_09">［註９］</a></span>を支援しているし、また独自の時間論は戦後の前衛音楽における時間と形式の再考にもかかわりながら、脱西欧的な視点をも含むといえよう。<br />
　しかしながらすでにみたように、古代ギリシアから中世の音楽論、そして「アルス・ノヴァ」からルネサンスにいたる定量的＝合理的記譜法にもとづく音楽技法の延長線上に、みずからの音楽を分析的に再構築するメシアンの姿勢は、あくまで西欧的知の伝承と深くかかわるものである。そしてこれらの「知」は、さらに継承されるべきものとして、（分析をつうじて）再発見されねばならないものでもあった。メシアンにおける教育活動とは、職能としての音楽家と同時に、知の継承者としての音楽家の象徴的表現でもあったのである。<br />
　さらに18世紀以前には伝承的な職制にすぎなかった作曲と演奏を、技術と様式の名のもとに教育制度にとりこむことに成功したのが、19世紀から20世紀初頭にかけてのパリ国立高等音楽院の業績（アカデミズム）であるならば、メシアンという存在はまさに、継承されるべき音楽における、制度としての知の実体化の例証として考察されなければならない。</p>
<span class="reference"><p>
<a name="404_01"></a>註１　筆者は1977-78年のメシアン最後の学年に在籍した。筆者の経験では作曲クラスにおいても、メシアンの主たる関心事は「分析」であった。<br />
<a name="404_02"></a>註２　ドビュッシーは３度目にして受賞、ラヴェルが５回失敗し、ラヴェルの師フォーレはそのスキャンダル（1905年）を、前院長Th. デュボアの退官をうけての次期院長選に利用し、音楽院院長に就任した。ローマ大賞は、この制度にまつわる作曲家たちの反逆の伝説と相反して、ベルリオーズ以来、つねに彼らの最大の関心事であった。<br />
<a name="404_03"></a>註３　『オリヴィエ　メシアン　その音楽的宇宙──クロード・サミュエルとの新たな対話』戸田邦雄訳、音楽之友社。原題はMusique et couleur （音楽と色彩）、また本稿のタイトルにも引用した「Le savoir transmis（知の継承）」の章は、邦訳では「教育活動と弟子たち」と意訳されている。<br />
<a name="404_04"></a>註４　戦後（1949年以来）、N. ブーランジェからH. ピュイグ＝ロジェにいたるピアノ伴奏科教授はオルガ二ストである。筆者はピアノ伴奏科でピュイグ＝ロジェに最後の３年間（1977-80）を学んだ。音楽院退官後の女史の東京芸術大学客員教授としての業績については、船山信子編『ある「完全な音楽家」の肖像──マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの』（音楽之友社）を参照。<br />
<a name="404_05"></a>註５　小鍛冶邦隆『作曲の技法──バッハからウェーベルンまで』（音楽之友社）の序章参照。<br />
<a name="404_06"></a>註６　のちのブーレーズの過激な言説にみられるように、メシアンとレイボヴィッツ両者の私的講座のあいだでの生徒たちの音楽的意識の亀裂が、戦後のフランス現代音楽に無視できない影響力を行使してゆく。<br />
<a name="404_07"></a>註７　メシアン自身の《音価と強度のモード》についてのひかえめな評価にもかかわらず、同曲のモードと発想をもちい、1951年にブーレーズは２台のピアノのための《構造1a》で全面音列技法を試みている。<br />
<a name="404_08"></a>註８　シュトックハウゼン「ウェーベルンからドビュッシーへ──統計的形式のためのノート」（1954）、『シュトックハウゼン音楽論集』（清水穣訳、現代思潮社）<br />
<a name="404_09"></a>註９　1967-68年度のメシアンの作曲科クラス初年度に、スペクトル楽派を代表するトリスタン・ミュライユ、1969年にはG. グリゼーが登録している。</p>

<p>　（本稿は、『ベルク年報［12］2006-2007』に掲載された拙稿を一部改稿したものである）</p>]]>
      
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   <title>第８回　モーリス！　不能の愛</title>
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   <published>2009-08-11T07:17:48Z</published>
   <updated>2009-08-18T02:21:32Z</updated>
   
   <summary>　モーリス・ラヴェル（1875-1937）は、しばしばドビュッシー（1862-1...</summary>
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p>　モーリス・ラヴェル（1875-1937）は、しばしばドビュッシー（1862-1918）と同様、フランス象徴主義の作曲家として扱われる。しかしながら19世紀末から20世紀初頭のベル・エポックの風土を共有しながらも、彼はドビュッシーの死後（第一次世界大戦後）から、第二次世界大戦にいたる両大戦間のモダニズムを生きた作曲家でもある。<br />
　ビック・バンドを思わせる有名な《ボレロ》（1928）にかぎらず、それぞれ両手と左手のための２つのジャズふうのピアノ協奏曲（1929-31、1929-30）、ディズニー（アニメ）ふうのオペラ＝ファンテジー・リリック《子供と魔法》（1920-25）などの作品に刻印された、1920年代という時代──絶え間なく生まれ消費される今日の国際的な都市文化の原型ともいえる時代──の祝祭の記憶をここに留めおくとしよう。
</p>

<p><span class="style4">機械愛の時代</span></p>

<p>　1905年、５度目のローマ大賞に失敗したラヴェルは、友人エドワール夫妻の豪華ヨットで河川をさかのぼり、ベルギー、オランダ、ドイツを訪れる。ベルギーとドイツの工業地帯はラヴェルをして「この精錬の砦について、この灼熱したカテドラル、ベルトの動きや汽笛や激しいハンマー音の素晴らしいシンフォニーに浸されているのを、どのように語ればよいのでしょうか。空は見渡すかぎり赤く、焼けるような深紅色でした……これらすべてが音楽的です！　これをたぶん使おうと思っています」と書いている。<br />
　第一次世界大戦のおよぼした深刻な影響をとどめる《ラ・ヴァルス》（1919-20）でも、まさに操業中の工場の狂躁的なノイズであるかのような開始部分、分奏するコントラバスの凝集音（アグレガ）状の持続が、ヨーハン・シュトラウスふうの享楽的なウィンナ・ワルツへと変容し、ベル・エポックの終焉を思わせる自滅的なエロスとタナトスの戯れを繰りひろげる。<br />
　ラヴェルの音楽が、パリ国立音楽院で修得された伝統的（アカデミック）な音楽技法にもとづくものであるとしても、それらは特化した技術的観点（テクノロジー）から演繹される。ラヴェルの音楽の代名詞であるかのようにいわれる卓越した管弦楽法も、ほんらいベルリオーズ『管弦楽概論』（1844初版）にみられる科学的な分類・整理による楽器の扱い（概論）から、さらに各楽器の特定の技術的視点から可能な音楽表現を「技法（テクニック）」の名のもとに詳述した、ヴィドールの『現代管弦楽の技法』の出版（1904）に、多くを負っていることからも明らかであろう。<br />
　複製可能なテクノロジーが創造の契機になる以上、そこには消費されるモードとしての記号性が必須のもととなる。ワルツ（ヴァルス）という時代遅れゆえのキッチュなモード性が、特定の拍子（３拍子）の変形──３拍子ゆえの、いっぽうの足の拍の重複としてのアクセントの移動（ダンスのファッション性）や、両足交互の動きによる旋回（ターン）としての２拍子の混交（ヘミオラ）、定期的な終止形（和声的カデンツ）の配置による並置的な形式（ステップ・パターンの組み合わせ）──に置き換えられる。ダンスほんらいの身体性（リズム）とパフォーマンスとしての音楽構造（旋律・和声）が、創作原理となるのである。さらにこうした方法が、今日のポピュラー音楽一般の創作原理でもあることは、いうまでもない。</p>

<p><span class="style4">実験・治癒としての創作</span></p>

<p>　ラヴェルにとって、逆説的ではあるが、管弦楽法とはかならずしもオーケストラ的な可能性を前提に実施されるものでのない。<br />
　前述したヴィドールの著作は、５度にわたるローマ大賞の試みにみられるような平凡な管弦楽法（ほとんどの評伝では、保守的なローマ大賞獲得のための、ラヴェルの偽装を想定しているが、保存されている課題作品全体からみるかぎり、当時の彼のもっていた管弦楽法の知識はかなり限定的なものといえる）から、画期的なピアノ曲集《鏡》（1904-05）の第３曲〈洋上の小舟〉の管弦楽化（1906初演、1950出版）にみられるような、大胆で実験的な試み（ラヴェル自身は試みと考えたゆえに、同作品は生前出版されなかった）への進展に、重要な役割をはたしたといえよう。《水の戯れ》（1901）以来の、リストふうの多様なアルペジオの合成から生じるピアニスティックな音響性に満ちた〈洋上の小舟〉は、もっとも管弦楽化が困難なテクスチュアといえるが、ラヴェルにとり、それらはむしろオーケストラのメカニズムの新たな探究にとって好適な素材となったといえる。ラヴェルは、原曲のピアノ的音形の最小限の変形のみで、同曲の音響的テクスチュアから、管弦楽書法としての再構造化を試みるのである。ここでは、まさに汎用的なテクノロジーとしての管弦楽法の修得が問題なのである。そしてそれらはまた、オーケストラ音楽という伝統的ジャンルを規定してきた表現と技法の関係を、一時的に切断したうえで、ヴィドールの著作のタイトルでもある、「現代管弦楽の技法」という高度なテクノロジーが可能とする音楽の在り方として、ここで新たに探求されるともいえよう。<br />
　管弦楽法がたんなる技法的役割を超え、創造行為の母体（マトリックス）として、実験的な工房となると同時に、不眠症のラヴェルを狂喜させたというヴィーネの表現主義的映画『カリガリ博士の診察室』（1919）同様、実験室＝診療室（キャビネット）としての、今日における創造行為にみる、きわどく奇怪な時代精神の自己治癒的行為の基点、としての意味をももつにいたるのである。</p>

<p><span class="style4">反アカデミズムの神話、あるいは音楽のテクニクスとポリテクスによるエピソード</span></p>

<p>
　５度にわたるローマ大賞の試み（1900-03、1905）の挫折は、ラヴェルの革新的な音楽語法にたいする、パリ音楽院のアカデミズムの無理解と排除が原因とされてきた。<br />
　新進オペラ作曲家の登竜門としてのローマ大賞は、同時にパリ音楽院における和声法、対位法、フーガ、管弦楽法といった技術教育（エクリチュール）の目的をも明らかにしている。<br />
　ドビュッシーが３度目の挑戦で獲得し、ラヴェル後にはメシアンが２度の失敗で断念したローマ大賞は、19世紀におけるパリ音楽院の教育行政（ポリテクス）の要であり、同時に消費としての音楽＝オペラ制作にかかわる技術的規範（テクニクス）でもあった。<br />
　14歳から30歳までの長期間（２年間ほどの中断がある）にわたってはいても、パリ音楽院在学中に、なんらの賞も獲得することが出来なかったラヴェルではあるが、とうぜんながらこうしたコード（規範）としてのローマ大賞獲得のゲームを楽しんだ。スキャンダルとなった、５度目の試みの予備審査での落選も、提出作品でみるかぎり、フーガにおける旋法的扱いと長７和音による終止（譜例１。審査員により３和音に訂正されている）、オーケストラ伴奏付き合唱曲《曙》における大胆な和声法（譜例２）は、《水の戯れ》（1901）、弦楽四重奏曲（1903）、歌曲集《シェラザード》（1903）といった、同時期の革新的な創作をすでに評価されていたラヴェルほんらいのものであると同時に、あえてローマ大賞獲得ゲームに（飽いたラヴェルが意図的に）規約違反をもちこんだ結果ともいえる。
</p>

<p><img src="./img/figure08_1.gif" alt="譜例1　1905年、ローマ大賞予備審査フーガの最後の６小節（オリジナルは異なる音部記号による4段譜" /></p>
<p><img src="./img/figure08_2.gif" alt="譜例2　1905年、ローマ大賞予備審査合唱曲《曙》11～13小節
オリジナル・スコアからのリダクション）" /></p>

<p>
　ちなみに、ほとんどの評伝において、このローマ大賞のスキャンダルでパリ音楽院院長を辞任したとされているテオドール・デュボアにしても、じつはすでに定年退任が予定されていた。このスキャンダルの結果、次期院長の有力候補であった作曲科教授シャルル・ルヌヴーがはずれ、ラヴェルの師で音楽院出身者でないフォーレが院長に選出されたが、かつて音楽院の作曲科教授ポストを、マスネ退任後にほかならぬフォーレが獲得した事情を考えれば、ラヴェルを巻き込んだ院長選の意外な展開も、おそらくはフォーレが出入りしていたパリ上流階級のサロンにおける、有力政治家、高級官僚夫人たちとの親密な交友関係に起因するところの（当時にすれば一般的な）、サロンを中心にした音楽行政（ポリテクス）が背景にあると考えられる。</p>

<p><span class="style4">音楽機械・不能の愛</span></p>

<p>　ラヴェルの個人的なセクシュアリティについては諸説がある。売春婦や周囲の同性愛者たちとの付き合いは、さまざまに語られてはいても不明である。<br />
　ところで、筆者は新ウィーン楽派の伝道師でもあるルネ・レボヴィッツ（1913-72）による、なんとも無国籍なラヴェル作品の怪演を気に入っている（A Portrait of France, Chesky CD57）。《ボレロ》の複調的カコフォニー（不調音）による永遠に旋回する音色のメリーゴーラウンド、《ラ・ヴァルス》の自動演奏機械（オルケストリオン）の奇妙なアコーディオン的強弱による、悪趣味すれすれのデフォルメの果てに、暴力的な破局（カタストロフ）へと正確に到達するさまは、ラヴェルのセクシュアリティと二重写しに、音楽機械の不能な愛の行為すら連想させる。<br />
　生命という時間性の創造から、機械（メカニズム）という生殖不能でありながら、永遠に複製を継続する行為への視点の移動は、芸術の名のもとに、同時代性という永続的な祝祭の日々を生み出しつづけるのであろうか。
</p>

<p><span class="style4">回路・横断</span></p>

<p>　ドビュッシーの音楽にみるような、瞬間に依拠する断続的な形式に対して、ラヴェルの音楽は、しばしば同一のリズム・パターン（舞踊的リズムによりながらも、かならずしも身体性を喚起させない、機械的な連続・不連続）による回路（サーキット）としての構造が、発展のないスタティックな形式を保証するともいえる。<br />
　たしかに瞬間の死ともいえるエロスの閃光が、あるいは虚構としての再生のためのタナトスが仕掛けられているとしても、ラヴェルの音楽では作品の個的な価値よりも、毎回の意匠（モード）の変換によりながら、けっきょく、回路としての創作ゲームが優先される。ラヴェルの父、ピエール・ジョゼフ同様に、怪しげな発明家・技師として、いっぽうでは生死を賭したギャンブル＝ゲームに興ずるのである。<br />
　また作品ほんらいのオリジナリティにしても、《ラ・ヴァルス》に特徴的なように、ピアノ独奏、ピアノ二重奏、さらに管弦楽という形態が、かならずしもオリジナル（原曲）とトランスクリプション（編曲）という関係として生じるわけではない。行程的には、たしかに２つのピアノ稿には、管弦楽化という高度なテクノロジー実践のためのプレ・オリジナル的位置づけがあるとしても、それゆえにこそ管弦楽化にかんしてもまた編曲としての、相互的な創造行為の横断・越境（トランス）が問題とされるのである。<br />
　ラヴェルの音楽の意味は、バッハからストラヴィンスキーにいたる──今日のポピュラー音楽とも共通する──創造過程としての原曲と編曲の関係を提起しつつ、さらに今日における創作の意味をも照射している。</p>]]>
      
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   <title>第７回　夢みるクロード</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.artespublishing.com/serial/archives/kokaji/kokaji07.html" />
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   <published>2009-08-11T07:07:04Z</published>
   <updated>2009-08-18T02:19:05Z</updated>
   
   <summary>　クロード・ドビュッシー（1862-1918）の音楽は、19世紀後半のロマン主義...</summary>
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         <category term="001音楽・知のメモリア （小鍛冶邦隆）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p>　クロード・ドビュッシー（1862-1918）の音楽は、19世紀後半のロマン主義とフランス象徴主義の風土に開花し、いわゆる世紀末の芸術から20世紀初頭のベル・エポックの花咲く日々の思い出として、われわれの記憶に刻まれている。<br />
　さらに第一次世界大戦の前年、1913年に、ストラヴィンスキー《春の祭典》とともにロシア・バレエ団により初演された、オーケストラのための「舞踊詩」と題された《遊戯》や、戦時中の1915年に作曲されたピアノのための《12の練習曲》は、当初の否定的な評価にもかかわらず、第二次世界大戦後、シュトックハウゼンやブーレーズといった50年代の前衛作曲家たちによって、その新しい音楽思考の観点から再評価されたのは周知のことであろう。<br />
　ヨーロッパの旧世界を解体した２度の世界大戦をはさみ、その評価が相反する（異なる）とも考えられる、ドビュッシーの音楽を再考してみよう。
</p>

<p><span class="style4">《選ばれた若者》</span></p>

<p>　1902年の《ペレアスとメリザンド》初演により、ドビュッシーは作曲家としての社会的評価を確立させる。また私生活においても、銀行家夫人のエンマ・バルダックとの不倫、妻リリーの自殺未遂、そして離婚という世間的スキャンダルをへて、1905年にボワ・ドゥ・ブーローニュ街の高級住宅地に移り、エンマと同居を始め、一人娘（シュシュ）が誕生……と、彼が夢みた上流の生活と創作の日々を獲得する経緯は、評伝的事実にいささか収まりきらない意味をもつ。<br />
　貧しい勤労者の家庭であるドビュッシー一家は、クロード５歳のときに郊外からパリ市内に移り住む。ドビュッシーは歓楽街ピガールと下町のサン・ラザール駅界隈をなんどか移り住みながら、1872年以降12年間におよぶ、パリ音楽院での学習時代を過ごすのである。<br />
　苦労して手に入れた（３回の挑戦）ローマ大賞という、オペラ作曲家として約束された将来も、彼一流の反逆的ポーズに加え、生きるために上流社会の音楽サロンでパトロン漁りをしなければならなかった青年作曲家には、あまり役に立たなかったようだ。もっともワグネリズム一色のパリ音楽界にあって、ワーグナーにならって（apr&egrave;s de Wagner）でなく、ワーグナーを超えた（apr&egrave;s Wagner）オペラを夢みたドビュッシーは、パトロンのおかげの２度のバイロイト体験と、パリ音楽院で受けたオペラ的作曲法の徹底的な学習を下地にしつつ、象徴主義と世紀末ふうの雰囲気に満ちた《ペレアスとメリザンド》（1893-1902）を抒情劇として構想することで、あくまでも伝統的なグランド・オペラとの差別化をはかる。</p>

<p><span class="style4">虚無の工場</span></p>

<p>　ドビュッシーは、エンマとの費用のかさむ生活を維持するため、次作オペラの構想を模索しつつ、管弦楽のための３つのエスキス《海》（1903-05）や、ピアノのための《映像第１集》（1905）以降の革新的な音楽語法を試みる。<br />
　ところで1906年以降、翌07年にいたる、創作上の不毛な時期が知られている。あたかも「虚無の工場（les usines du N&eacute;ant）」（1906年４月18日の、ドビュッシーからデュランへの手紙）ともいえそうな沈滞感のなかで、創作は停滞する。<br />
　しかし革新的語法という新たな「投機」は、意外なところで試みられる。<br />
　豊穣なワグネリズムの記憶でもある、ドビュッシー初期の歌曲集《ボードレールの５つの詩》（1887-89）第３曲〈噴水〉の（ピアノ伴奏部分の）オーケストラ編曲は、あまり知られていない。ドビュッシーは、《海》や《映像第１集》で試みた、響きと時間（音色構造と形式）のより先鋭的な実験をここでおこなう。がんらいワーグナーに由来する、管弦楽編曲ふうピアニズムをもつこの歌曲のピアノ書法は、ここにおいて、さまざまな楽器の音色・音形（音高）・リズム（持続）・強度とアーテキュレーションによって、徹底的に解体されるのである。また複雑なフィギュア化による、音像の多様な変化・移動により、ほんらいの調性的支点が、より根源的なスペクトルに分解され、あたかも音響的な迷宮でもあるかの様相を示すのである。1907年２月24日にコンセール・コロンヌにより初演されたこの編曲は、否定的に評価されたのみならず、明らかにその場かぎりの機会的作品として無視されたのはとうぜんであろう（いまだ再評価されていない）。<br />
　そこにみる創作方法は、時代性を共有する、技術と様式による伝統的な制作術（musica poetica）としての作曲法に対して、20世紀全般の方向性として、個的で自律的な、「エクスペリメンタル（実験的＝経験的）」な創造のあり方が対比される。</p>

<p><span class="style4">律動づけられた時間と色彩</span></p>

<p>　1907年は、ふたたび創作の夏がおとずれる。<br />
　３曲からなる管弦楽のための《映像第３集》第３曲として知られる《春のロンド》の構想が確実に進展をみるのである。<br />
　「私はしだいに、音楽というものは、その本質からして、伝統的で厳格な形式のなかでくりひろげられるものではないと確信するにいたりました。音楽は律動づけられた時間と色彩なのです……」という、デュランにあてた1907年９月３日の手紙は《春のロンド》の進展を伝えると同時に、この作品の本質的に新しい意味を語っていると考えるべきであろう。<br />
　あまり議論の対象としてとりあげられたり、演奏されることも多いといえない、比較的短い作品《春のロンド》を具体的にみてみよう。<br />
　前出の手紙のなかでドビュッシーは、同作品における「非物質性」にもふれているが、おそらく特定の音色構造とその時間的持続が形成する音楽形式が、（力学的、機能的な）従来の調的和声にもとづく、伝統的形式による音楽展開と対比されていると思われる。以下音色構造と時間的持続の２点から《春のロンド》の図式を描いてみる。とりあえず伝統的といってよい、ロンド形式が浮かびあがる（図表参照）。
</p>

<p><img src="./img/figure07_0.gif" alt="《春のロンド》の構成図表" /></p>

<p><span class="style4">Images（映像）・現実と実存</span></p>

<p>　管弦楽のための《映像第３集》（1905-12）は、《ジーグ》、《イベリア》、《春のロンド》の３曲からなり、ピアノのための《映像第１,２集》同様、各タイトルが暗示する描写的内容に反して、そこでは「現実（r&eacute;alit&eacute;s）と異なるなにか」（ドビュッシー）、おそらく実存（r&eacute;alit&eacute;）が探求されている。images（映像＝心象）を介して、現実界のとらえがたい変転そのものの背後に、本質的な現実＝実存が眺望されるのである。<br />
　音響と時間の形式による新たな現実とは、現実の音響＝ノイズと楽音、身体的リズムと音楽語法一般の韻律性の交わるところ、パルス（振動数）としての音高とリズム（音価）の相関性、そして調性的音響の倍音原理におけるスペクトルの試みとして探求される。<br />
　ところで身体的リズムとは、《映像第３集》のフォークロア的性格、《ジーグ》の英国、《イベリア》のスペイン（ハバネラなど）、《春のロンド》のフランス（《もう森へは行かない〔Nous n'iron pas au bois〕》と《眠れ、よい子〔Do,do,l'enfant do〕》といったフランス童謡が、５拍子の舞曲の主要主題として用いられる）の、特定のリズムパターンによる民謡ふう素材が、コンテクストを形成することを意味する。非ヨーロッパ文化圏への異国趣味とならんで、ヨーロッパ文化のファッション性は、今日の都市文化の原点としての国際都市、パリの同時代性（コンテンポラリー）の反映ともいえよう。<br />
　変ロ、変ホ、イ音という限定された音高を中心とする序奏（１-21小節）では、弦楽器のスル・ポンティチェッロ（駒の近くで）、スル・タスト（指板の近くで）という、通常の奏法に対して倍音の特徴的な制御と、字義どおり倍音を生成するハーモニックス奏法が集中的に用いられている。また同様にピッツィカートやトレモロも、音源アタック時の雑音やヴァイブレーションといった「変調（モデュレーション）」が問題となる。通常の楽音に対し、現実界の反映としての非楽音＝ノイズが音楽的発想の原点となる。調的・和声的コンテクストに対し、音響的テクスチュアが対置され、新たな音楽構造・持続が試みられるのである。序奏部に現れる《眠れ、よい子》や、続いてロンドＩにおける《もう森へは行かない》といった主題も、伝統的な主題性と異なり、たんなるテクスチュアの折り目に浮かびあがる音楽的瞬間を生み出すにすぎない。またほんらいのロンド主題と思われる第３の楽想（31小節以降）も、散在する一動機にすぎず、やがて音楽的展開のうちに散逸するのである（180小節以降）。<br />
　音楽的時間は、あたかも即興的な素材と形式のうちで、夢みるような持続として生み出される。</p>

<p><span class="style4">音響的スペクトルによる形式</span></p>

<p>１）クプレＩの音響設定をみてみよう（68小節以降、譜例１参照）。<br />
　ここではスル・タストの弦楽器のトレモロとハーモニックス奏法により形成されるホ長調和音（実際には、イ長［短］調の属７和音e－gis－h－d）と、バスのオスティナート的なハ長調の複調的音響の摩擦が特徴化される。ティンパニの異例な高音をともなうg-cの張り詰めた音色感と、チェロのアルコ・ピッツィカートと分割された声部の形成する音色旋律としてのオスティナートの不変のバス進行が、調的推移とは異なる、音色的テクスチュアに聴覚を集中させる。そして高音域でソロ・グループとそれ以外に分割された第１ヴァイオリンや、他の弦楽器グループの生み出すトレモロやハーモニックスの、高次倍音に相当する動き（さらに木管楽器の微細な動機）が、細分化された振動数に相当し、中低音の倍音の基幹音程にあたる音程が、より緩やかな周期で反復されることで、音高（倍音）とリズム（音価）がパルス的に一致する、あたかも電子音楽的な発想がみられる。<br />
　シュトックハウゼンがドビュッシーの《遊戯》でおこなった分析は（『ウェーベルンからドビュッシーへ──統計的形式のためのノート〔1954〕）、とうぜんながら、50年代の具体音・電子音楽的発想を根拠とするものである。</p>

<p><a href="./img/07_1.pdf"><img src="./img/figure07_1.gif" alt="譜例1　クリックするとPDFファイルが開きます"  border="0" /></a></p>

<p>２）さらにクプレIIへの移行とクプレII冒頭の音響設定を検討してみよう（135-139小節、譜例２参照）。<br />
　移行部（137小節まで）の中心的和音（音響）のas-c-es-gがクプレII（138小節以降）のgis-h-dis-fisと異名同音的変化により、音響的テクスチュアの変化が生ずる。単純な持続和音（長・短７和音）ではあっても、そこでは弦楽器群（補助的に木管楽器）の高音域から中音域への音像移動を、背後のハーモニックスを含む弦楽器と木管（ホルンを含む）の保続音響が、空間的に浮かび上がらせる。<br />
　また132小節以降、短く再現する第３の（主要）ロンド主題の最後の動機が用いられてはいても、（若き日のドビュッシーに強い印象を与えた）ガムラン音楽を思わすような、極小動機による一種のヘテロフォニーが意図されている、といってもよいかもしれない。<br />
　移行部におけるティンパニのリズムがコントラバスのピッツィカートに移り、いっぽうタンブラン（中太鼓）のリズムは不変であるところから、一定のリズムにともなう彩色法の変化が、律動づけられた音色としての局面を生成するのである。同様に、クラリネットに聴かれる、《もう森へは行かない》の拡大された旋律の彩色法でもある。<br />
　このように（２カ所のみの検証にすぎないが）各部分の固有の音色的テクスチュアが、コンテクストとしての形式を生み出す。《春のロンド》のみかけのロンド形式（類比による形成方法は《遊戯》と共通する）は、とうぜん伝統的形式としてではなく、音響的推移の形式としての音楽の対照、多様化という、聴覚上のフォーカス（焦点）を形成するにすぎない、といえばよいだろうか。<br />
　方法は異なるとはいえ、こうした管弦楽的音響にかんする新たな発想は、マーラー（第９交響曲第１楽章や《大地の歌》終楽章）を介して、1910年前後の新ウイーン楽派と共通項が認められる。シェーンベルク《管弦楽のための５つの小品》op.15第３曲〈色彩〉、ウェーベルンの《６つの管弦楽のための小品》op.6第４曲や、ベルクの《３つの管弦楽のための小品》op.6第１曲導入部などには、まさに楽音とノイズの音響的スペクトルがみられる。そして《春のロンド》の、1910年11月15日のニューヨーク初演をおこなったのが、マーラー自身であるのも象徴的といえようか。<br />
　同年３月２日に作曲者自身の指揮によりおこなわれた、パリ初演の後にみられる、用心深い批評に比べれば、「形式の崩壊」「痙攣的な」「混乱した響き」「常軌を逸したオーケストラの色彩」といったニューヨーク批評界の語調（H.-L.ド・ラ・グランジュによる引用）は、ドビュッシーの音楽というよりも、あたかもマーラーの後継者たちたる新ウイーン楽派の音楽を思わせる。</p>

<p><a href="./img/07_2.pdf"><img src="./img/figure07_2.gif" alt="譜例2　クリックするとPDFファイルが開きます"  border="0" /></a></p>


<p><span class="style4">夢みるクロード</span></p>

<p>　伝統的な音楽理解が、おおむね主題の提示・対比・発展・再現といった時間形式に支配されている事実は否定しようがない。しかしながら時間形式としての音楽を、聴き手はその時間を現実に所有することなしに、記憶と内的体験として、また時間的経過のプロセス（過程＝手続き）全体として、把握するにすぎない。たとえば主題じたいがいかに正確に再現されようとも、一般的聴衆は、すでに提示された主題を正確に認知するのではなく、ありうべきプロセス＝文化的慣習としてのみ、主題の再現を遡及的（形式的）に追認するのである。<br />
　近代における音楽の「形式」とは、その歴史的な根拠のあいまいさにもかかわらず、音楽聴取のテクノロジーの一部として、聴き手の音楽的理解の自由を「保障＝担保（セキュリティ）」するものである。そして作者の名もこの「保障＝保証」の一部となる。<br />
　しかしドビュッシーの音楽では、もろもろの音楽的契機（主題・リズム・響き・形式など）が、音楽的現実（実存）を生み出す瞬間を保証するのみといえる。時間＝形式の彼方に、記憶と忘却、そして変容としての再生の刻を生み出す、作者の名も消失したところの自律的な記憶装置としての音楽的装置＝配置（disipositif＝disposition）が、ドビュッシーの夢みたものなのであろうか。<br />
　移ろいゆく魅惑の一刻を、永遠に留め置くためには、断続的に現前する音楽的瞬間を体験する快楽と、その喪失の空虚に堪えつづけなければならない。</p>]]>
      
   </content>
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   <title>第６回　悔悟する２人のペテロ</title>
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   <id>tag:www.artespublishing.com,2009:/main/serial//3.401</id>
   
   <published>2009-08-11T07:04:17Z</published>
   <updated>2009-08-18T02:17:50Z</updated>
   
   <summary>　19世紀音楽におけるロマン主義には、孤独、憧憬、さすらいといった市民社会におけ...</summary>
   <author>
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         <category term="001音楽・知のメモリア （小鍛冶邦隆）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.artespublishing.com/serial/">
      <![CDATA[<p>　19世紀音楽におけるロマン主義には、孤独、憧憬、さすらいといった市民社会における現実逃避と夢想による代償作用が機能している。またロマン派とひとまとめに区分されるが、おのおのの作曲家の出自をみれば、いわゆる勤労者としての小市民（下層中産階級）から、あるていどの成功者（ブルジョワ＝上層中産階級）としての市民社会の子弟が、その大半をしめることをあらためて指摘するまでもないであろう（これは今日にいたるまで変わらない）。<br />
　ところで孤独、憧憬、さすらいといった前出のロマン的概念は、音楽語法というきわめて個人的な表出を通じて表現（告白）されるのである。<br />
　ロマン主義的語法は、ブルーメも指摘するように、一般的に考えられているような革新性を根拠とするよりは、むしろ古典主義様式の延長としてのあり方こそが、重要であるといえる。とすれば、古典主義という汎用的な語法にあって、ロマン主義の個人化された表現は、内面の告白という特化された言説を形成するというところに注目したい。</p>

<p><span class="style4">《未完成交響曲》──シューベルトの場合</span></p>

<p>　フランツ・ペーテル・シューベルト（1797～1828）のもっとも知られた作品である、《未完成交響曲》＝交響曲第７（８）番ロ短調D759（1821）は、断章として２楽章のみ完成されたかたちで残され、その伝承と復活（1865年）は、まさにロマン的な物語を形成する。<br />
　断章という未完の、すべてが語られることのない物語は、ここでもきわめて個人的な告白のかたちをとっている。《未完成》の成立と関連して、しばしば引用される、同時期に書かれたシューベルトの自叙伝断片『私の夢』の内容は、別れ、さすらい、愛と苦しみ、あるいは死と至福のうちの浄化といった、第１、２楽章の音楽的特徴をあるていど象徴するともいえる。こうした聴き手の平均的理解の水準（ロマン主義という制度的言説）としての表現から、さらに具体的な音楽語法の実質をみてみよう。</p>

<p><span class="style4">調選択と楽器法という音響的特性化</span></p>

<p>　18世紀にけっして用いられることのなかったロ短調、教会音楽ないしは劇音楽の楽器法に属するトロンボーン（もちろんベートーヴェンの交響曲に先例がある）、および特殊な調選択の結果、通常のティンパニの最高音域からさらに半音高いfis音をともなう、異常なほどに張りつめた管弦楽的音響性格による第１楽章は、ロマン的というよりも、ある種の劇的性格（悲劇性）を前提にしているといってよいだろう。<br />
　オーケストラ音楽の調性を決定するためには、（ドからラまでの音階による）ヘクサコルド読みが伝統的に用いられるが、さらに音域の高いシを主音とする場合、（それゆえ、オクターヴ低い「バッソ」がしばしば用いられる）変ロ長調のみが一般的に用いられてきた。ロ短調には、古典派の交響曲にみられる高音域の変ロ長調（たとえばモーツァルトの交響曲第33番など）と補完関係にある、低い変ロ長調（ベートーヴェンの交響曲第４番など）におけるオクターヴ低い「バッソ」を用いた落ち着いた調設定の伝統がなく、書式から排除されてきたのである。また、高い変ロ長調では、とうぜんトランペットとティンパニは、こうした高音域の調設定からは除外され、高音域のホルン（アルト・ホルン）が用いられてきた（トランペット、ティンパニのない、シューベルトの交響曲第５番変ロ長調D485では、通常のバッソのホルン［B管］を用いており、すでに伝統的なアルト・ホルンの用法はみられない）。<br />
　とりあえずはウィーン古典派の伝統的書法の枠内で、すでに６曲の交響曲を書いてきたシューベルトが、《未完成》に異例な作曲上の前提を設定することじたいが、作品の完成をさまたげたというような議論は不毛であろうし、むしろ《未完成》の表現を形成する音響的必然性を考察してみるべきと思える（第４回連載でとりあげた、モーツァルトのト短調交響曲の２本のホルンのうち１本は、アルト・ホルン［B管］であり、すでに調設定における、ある種の特異性を暗示している。ベートーヴェンにおいても、交響曲第７番が、ヘクサコルドにおけるイ長調という最高音域の特性＝アルトとしてのみ存在するA管ホルンと、イ長調には通常用いられないトランペットとティンパニなどが、その躁状態ともいえる両端楽章の音楽的実質を形成する）。<br />
　また《未完成》にみるホルン（D管）の選択は慣習的、しかし同様にD管が選択されるはずのトランペット（E管）は、おそらく主調ロ短調にたいしてシューベルト特有のサブドミナント系の調・和音選択の傾向（展開部にみられるホ短調など）と関係があると思える。こうした古典的管弦楽法の延長線上に生じる（トロンボーンやティンパニの用法なども含めた）異質性において、《未完成》の表出性の特徴を、ほんらい考察すべきであろう。</p>

<p><span class="style4">主題の暗喩するもの</span></p>

<p>　低弦のユニゾンで提示される導入主題（譜例１参照）は、ロマン派特有の主題においても歌謡的である点のみならず、むしろその構造の特異性においてきわだつ。たとえば４～５小節のa-fis-g-dという音型は、一般的な和声付けをすることの困難なもので、じっさい、展開部において（184小節以降）この音型による動機的展開にあたり、シューベルトは例外的な和声処理をおこなっている。とうぜんこの導入主題にひきつづき（９小節以降）、焦燥感と憧れに満ちた、本来の主要主題が提示されるが、展開部のみならず、楽章全体において用いられるのは導入主題のみである。<br />
　低音域で声をひそめ吟唱されるこの主題の意味は、とうぜんながら《未完成》の音楽的実質にかんするさまざまな言説を呼び起こす。しかしながらここでは、さきほど和声処理が困難と指摘した音型や、主題冒頭の３度内の動きから、単旋聖歌にみられるような旋法的性格が想定され、それらが《未完成》の劇的かつ（しばしば対位法的書法が援用される）宗教音楽様式と関連があるとは考えられないであろうか？<br />
　もちろん第２主題のレントラーふう（大衆的）性格が、並列的に配置されるが、62小節の唐突な全休止後の劇的な挿入部分（ここでもサブドミナント領域の変化和音が用いられる）が、つねに対比される。また展開部における劇的性格は、これらの身振りをより強調したものであろう。第２主題中間ペリオーデ（63小節以降）や展開部で表現されるものは、あきらかに精神的・身体的苦痛の物質化（音響的表現）であり、とうぜんその背後に演ずる主体の精神と、これらを実体化する苦痛に満ちた「告白」という制度的言説の存在が暗示される。<br />
　歴史的キリスト教社会と近代市民社会における、個人の在りかとしての「告白」という演技性が、表現する主体の根拠となるのである。しばしば言及されるところの、当時のシューベルトの性病の進行に由来する身体的苦痛と精神的不安が、どのように創作に影響をおよぼしたかという議論は、想像上の範囲を超えない。しかし自身と社会の関係としての倫理を顕在化するところの「病」は、おそらく「告白＝悔悟」というキリスト教信者の統治としての密かな儀式性において、個人的＝社会的に共有されるものとなる。この過程を抜きに、代償作用としての創作は、およそ困難なものになるであろう。<br />
　ペテロ（ペーテル）は悔悟する。</p>
<p><a href="./img/figure06_1.gif" target="_blank">
<img src="./img/figure06_1sum.gif"  border="0" alt="譜例1サムネイル" /></a></p>

<p><span class="style4">《悲愴》・チャイコフスキーの場合</span></p>

<p>　ピョートル・イリイーチ・チャイコフスキー（1840～1893）が完成した最後の交響曲第６番《悲愴》（1893年初演）は、シューベルトの《未完成交響曲》（1821）と、ロ短調という、交響曲にあっては異例の調性を共有するのみならず、いわば本歌取りともいえる性格をもつものである。<br />
　その主題はあきらかに《未完成》第１楽章冒頭主題を暗示するとともに、おそらくは《悲愴（Path&eacute;tique）》というタイトルが示すように、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ《悲愴》作品13ハ短調の、冒頭序奏主題の引用とも考えられる（譜例１、２参照）。<br />
　《悲愴》交響曲にみる、ロマン主義における音楽表現としての「告白」の意味する問題を、シューベルトの《未完成》で考察した観点と関連させながら、再度検討してみよう。</p>
<p><img src="./img/figure06_2.gif" alt="譜例2" /></p><br />

<p><span class="style4">ロマン派「交響曲」における宗教的イメージ</span></p>

<p>　シューベルトの最後の交響曲第８（９）番ハ長調D944（1828）の、作曲家の死後11年をへた、メンデルスゾーンによる歴史的な初演（1839年、ライプチヒ）以降、その影響化にあるシューマンやブラームス（さらにブルックナーも加えられよう）の交響曲創作の歴史には、とりわけ３本のトロンボーンの使用（さらにチューバ１本も加わる場合もある）のみならず、ロマン主義の原点のひとつとしての「根源的な（urspr&uuml;nglich）」もの、汎神論的な宗教的神秘性がみられるといってよいのではないだろうか。教会音楽様式に代表される、コラールふう主題や対位法による書法が、それらの拠点となる。<br />
　1877年に作曲された第４番以降のチャイコフスキーの後期交響曲では、ロシア固有の音楽的素材にくわえ、イタリアのベル・カント・オペラの旋律法とフランスのグランド＝オペラからワーグナーにいたる管弦楽法によるオペラ様式、さらに、とりわけフランス・バレー音楽ふう趣味が、独自のロシア・西欧的な様式を生み出している点についてはいうまでもない。<br />
　ところで《悲愴》における宗教的イメージと考えられる箇所を検討してみよう。第１楽章展開部の激越な前半の頂点では、音楽的頂点（190小節）の変ロ音のために配されたともいえる変ロ管トランペットが、主調がロ短調であるにもかかわらず、第１楽章を通じて用いられている（上記「調選択と楽器法という音響的特性化」の項を参照）。その後、突如出現するロシア正教会の聖歌＝死者のための賛歌（202小節以降）が、展開部後半の黙示録的ともいえる劇的頂点へと導く。聖歌の引用同様に、あたかも黙示録＝終末論的な審判の時を告げる喇叭を暗示する、３本のトロンボーンとチューバによる斉奏（286小節以降）は、終楽章終結部直前（137小節以降）の、伝統的な埋葬時の奏楽（Equale）の様式を思わせる、やはりトロンボーンとチューバによる四重奏ともに、交響曲における宗教性の反映について考えさせられる。</p>

<p><span class="style4">音型的統一によるアフェクト</span></p>

<p>　さらに《悲愴》では、第１楽章導入部最後の、全音階的な４度下降音型（15小節以降）のアフェクト（情緒性＝冒頭６小節間の半音階的４度下降音型［e～h］の修辞的象徴性［悲しみ、苦痛など］ともかかわる）による、全４楽章における音型的統一ともいえる手法がみられる。<br />
　第１楽章全体において明らかなように、バレー音楽ふうイディオム（５拍子の異例なワルツ）にもとづく第２楽章や、焦燥的で諧謔的な（さらには暴力的でもある）行進曲としての第３楽章ですら、統一原理として作用している事実は興味深く思われる。さらに終楽章においても、アリオーソふうの悲痛な第１主題と、甘美な劇場ふう宗教様式のアリアを思わせる第２主題の構成は、明確な主題的統一によりながらも、たくみな和声法と管弦楽法により、みごとに差別化されている（譜例３参照）。<br />
　しかしながら、およそ主観的な傾向の勝った創作と考えられることの多い《悲愴》にあって、これらの（主題）音型的統一性の意味するものは、なんなのであろうか。</p>
<p><a href="./img/figure06_3.gif" target="_blank">
<img src="./img/figure06_3sum.gif" border="0" alt="譜例3" /></a></p><br />

<p><span class="style4">悔悟するペテロ</span></p>

<p>　シューベルトの《未完成》で暗示されていた「告白＝悔悟」の名のもと、宗教という名の劇場にあって、もうひとりのペテロ（ピョートル）の過激な演劇性が表出するものを、シューベルトの性病と同様に、同性愛嗜好というチャイコフスキーの精神的・生理的特質と、近代市民社会の倫理と対峙させるのは、たぶん、公平な議論とはいえないだろう。<br />
　創作という場における、（音楽的身振りを生み出す）書く主体の演技性とは、歴史的キリスト教社会の共同幻想に近いもの──《未完成》の宗教的悲劇性や《悲愴》の黙示録的情景──、あるいは聖なる音楽──《未完成》第２楽章の祝福された者〈ベネディクトゥス〉の鐘のイメージ（14～15、50_51小節など）──や、《悲愴》終楽章の第１主題の破滅的な最後の出現のさい鳴り響く、ホルンのゲシュトップ奏法による異常な（金属的）音色による弔いの鐘の幻想（126小節以降）──というかたちで実体化されるのであろう。これらのイメージを配置する内的規律こそが、（主題）音型的統一の意味であり、また創造する主体の意識のあり方でもある。やがて「告白」という内的体験の外在化は、ロマン主義的幻想の果てに、人間精神の識閾の病理的な領域として、「無意識」という音楽の新たなディスクール（精神分析）をも、編成するのである。</p>]]>
      
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